大江戸妖怪かわら版 異界から落ち来る者あり 下 香月日輪 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)異界《いかい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)黒|眼鏡《めがね》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)すっかり変わってしまっている[#「すっかり変わってしまっている」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/02_000.jpg)入る] 〈帯〉 妖怪たちの人情話 痛快大江戸ファンタジー [#挿絵(img/02_001.jpg)入る]  大江戸妖怪かわら版  異界から落ち来る者あり 下  香月日輪  理論社  大江戸妖怪かわら版 異界から落ち来る者あり◆下◆  もくじ  子ども、異界を歩く  異界にて生まれ変わる  遠きにありて思う  雀、かわら版屋になる  芍薬、牡丹、百合、蘭秋  雀、芝居を見物す  でんつくに付ける薬なし  季節移りて木の芽吹く [#地から1字上げ]装画 橋 賢亀 [#地から1字上げ]装幀 郷坪浩子 [#改ページ] [#挿絵(img/02_005.png)入る]   子ども、異界《いかい》を歩く  どこまでもどこまでも、果てしなく透《す》きとおった美しい空気。  鏡のように静まり返った水面《みなも》のような、静寂《せいじゃく》の世界。  目を閉《と》じれば、まぶたに映《うつ》るのは闇《やみ》ではなく、澄《す》んだ空気に満たされ、遥《はる》か遠くまで景色《けしき》が見えるような別の世界だった。  その透明《とうめい》な世界の中に、風のゆく音、雲のゆく音、木々の梢《こずえ》の触《ふ》れ合《あ》う音が聞こえた。それはまるで、水面に起こる小さな波紋《はもん》のようだった。  花の咲《さ》く音さえ聞こえるような気がした。  じっとそれらに耳を傾《かたむ》けていると、その中に身体《からだ》が透《す》けて溶《と》け込《こ》み、分解《ぶんかい》され、細かな粒子《りゅうし》となって霧散《むさん》しそうだった。  子どもは、思わず自分の身体を抱《だ》きしめた。指先に触《ふ》れる身体は温かく、確《たし》かに鼓動《こどう》していた。  目の前に広がるは、異界《いかい》の景色《けしき》。  切り立った断崖絶壁《だんがいぜっぺき》。雲を遥《はる》かに見下ろす恐《おそ》ろしい高さの岩山の頂上《ちょうじょう》に、子どもはいた。  そんな場所にあるとは思えぬほど、のどかな茅葺《かやぶき》屋根の一軒家《いっけんや》。黄金《きん》色の陽射《ひざ》しにポカポカと温められた縁側《えんがわ》に、子どもはポツンと座《すわ》っている。  雲とも霧《きり》ともつかぬ天空の白い海の向こうには、大きな都市が見えた。甍《いらか》の波に、高くそびえたつ城《しろ》。 「大江戸城《おおえどじょう》の天守閣《てんしゅかく》だ。りっぱだろう!?」  いつの間にそこに来たのか、縁側《えんがわ》の壁《かべ》にもたれる黒髪《くろかみ》に黒|眼鏡《めがね》の男がいた。 「お前《め》ぇの世界の江戸城にゃあ、ねぇがな」 「天守閣《てんしゅかく》?」  男は頷《うなず》いた。  天守閣のそびえる空を、さまざまなモノが飛び交っている。  龍《りゅう》、大きな鳥、そして輿《こし》や力車。船もあった。  子どもがそれまで生きてきた世界と、まるで違《ちが》う場所。だが、何も変わらぬ場所——妖怪《ようかい》たちの大江戸。  何の偶然《ぐうぜん》か、子どもはこの異世界《いせかい》に落ちてきた。そしてまた何の偶然《ぐうぜん》か、自分を「魔法《まほう》使い」と称《しょう》する、黒|眼鏡《めがね》に着流《きなが》し姿《すがた》の男に助けられ、この天空の庵《いおり》で過《す》ごしてきた。  帰りたくば帰れると、男は言った。  元の世界に帰るか、この世界に残るか、自分で考えて自分で決めろと男は言った。  子どもは……わからなかった。  この世界に残る考えなどなかった。だが、元の世界へ帰ることも考えられなかった。それは、ただ単に、元の世界が子どもにとって過酷《かこく》で困難《こんなん》な場所であったためか。  それならば、二つの世界は時間の流れが違《ちが》うため、子どもが恨《うら》んでいたものも、人も、すっかり変わってしまっている[#「すっかり変わってしまっている」に傍点]から、「もう恨まなくていい」と、男は言ってくれた。 「やり直せるかも知れない」 と、微《かす》かな考えが子どもの頭をよぎった。しかし———  気がつくと、庭の池に映《うつ》る、大江戸《おおえど》の妖怪《ようかい》たちの様子に見入る自分がいた。  包《つつ》み込《こ》むような夜の闇《やみ》の中で行燈《あんどん》の灯《あかり》のもと、庵《いおり》にある書物を一心に読む自分がいた。  書棚《しょだな》にあったのは、この世界の住人たちが主人公の、さまざまに面白可笑《おもしろおか》しい物語集だった。恋愛《れんあい》ものあり、冒険譚《ぼうけんたん》あり。最初は何を書いているのかまるでわからなかった文字が、なぜか次第にわかるようになるのが嬉《うれ》しくて、子どもは夜|遅《おそ》くまで夢中《むちゅう》で本を読《よ》み漁《あさ》った。こんな気持ちは初めてだった。  男の使用人であろう、お多福《たふく》の面をかぶった者が用意してくれる飯も、楽しみで仕方なかった。米の一|粒《つぶ》一粒が、味噌汁《みそしる》が、焼き魚も野菜の煮物《にもの》も、うまくてたまらない。身体《からだ》が「もっと食いたい」と喜んでいるのがわかり、子どもはそれが不思議でならなかった。  そんな子どもを見て、そばに座《すわ》った使用人の、お多福の面の向こうが微笑《ほほえ》ましげに笑っているのがわかり、それも不思議だった。  そう言えば、男の黒|眼鏡《めがね》の向こうも、子どもにはよくわかった。  何も言わず、だがふとした時に側《そば》にいて、子どもを見守っている男の表情《ひょうじょう》は、神秘《しんぴ》的だがおだやかだった。 「自分で考えて自分で決めろ」と。そう言ったっきり何の助言もしてくれぬ男はしかし、突《つ》き放《はな》しているのではなく、待っているのだと子どもにはわかった。突き放されることは骨身《ほねみ》にしみて知っている子どもには、男の態度《たいど》はそれではないのだと確信《かくしん》できた。それは、それだけで、子どもの胸《むね》をいっぱいにした。  ♪ちりん、とん、しゃん…… 男が縁側《えんがわ》で三味線《しゃみせん》を弾《ひ》いている。  壁《かべ》にもたれ、降《ふ》りそそぐ温かい陽射《ひざ》しにふわふわと漂《ただよ》うように、気持ちよさげに男は糸を弾《ひ》く。音楽になっているのかいないのか子どもにはわからぬが、この空間を何かが豊《ゆた》かに満たしてゆく気がして、男と二人、いつまでもこうしていたい気持ちになった。  なぜ心が、こんなにもシンと静かなのだろう。  ここが、静かな世界だから?  それまで自分を覆《おお》っていた、真っ黒な激《はげ》しい嵐《あらし》のような感情《かんじょう》は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。嵐《あらし》は去ったのだろうか。  静かだが奇妙《きみょう》に空っぽな心を、子どもはどう理解《りかい》していいのか迷《まよ》っていた。 「ヒマそうな面《つら》だなァ」  男は軽く笑った。 「ヒマそう? ……そうか。ヒマなんだ、俺《おれ》」  子どもは、これがヒマだということかと思った。  元の世界でも「ヒマ」な時はあった。しかし、こんな静かな気持ちではなかった。なぜか居《い》てもたってもいられぬような、焦《こ》げるような気持ちだった。そんな時は、決まって何かを破壊《はかい》したり、誰《だれ》かを傷《きず》つけたくなったものだ。 「棚《たな》にある本を全部読んじまった」 と、子どもは男に訴《うった》える風に言った。 「もう? 全部か?」 「他《ほか》に本はないのか? あったら出してくれよ」 「ここの本は面白いかィ?」  子どもは頷《うなず》いた。 「本は……読むのは好きだったんだ。そんな、言うほど読んでねぇけど。ここにある本は、俺《おれ》にとっちゃ、そのまンまおとぎ話《ばなし》だぜ。ハハ」  笑った子どもを見て、男も口元をほころばせた。 「そイじゃあ、ひとつ……」  男は立ち上がった。 「町の本屋へでも行ってみるかェ?」 「え? い、いいのか!?」  子どもの顔が輝《かがや》いた。  お多福《たふく》面の使用人が、子どもに町人の衣装《いしょう》を着付け、髪《かみ》を結《ゆ》った。髪を結ったといっても、子どもの髪は短かったので、後ろ頭の髪を一掴《ひとつか》み、ちょんとくくっただけだった。 「かぁいいネ」  即席《そくせき》の町人|姿《すがた》を見て、男は笑った。  子どもはドキドキしていた。気分は冒険譚《ぼうけんたん》の主人公だった。 「こっち、来《き》ねぇ」  庭の囲いの戸を開いて、男が手招《てまね》きした。  子どもがその戸をくぐると、そこはもう、大江戸《おおえど》の町中だった。 「!!」  両側に立《た》ち並《なら》ぶ民家。路地の向こうの通りを、異形《いぎょう》の者たちが行き交《か》っている。ハッとして振《ふ》り返《かえ》ると、そこにあるのは天空の庵《いおり》ではなく、普通《ふつう》の瓦《かわら》屋根の家だった。小さな庭の庭石の上に、猫《ねこ》が丸まっていた。 「ここァ、大江戸《おおえど》の神田だ。場所的にゃあ、お前《め》ぇの世界とあまり変わらねぇよ」 「ふ、ふぅん!?」 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》」  声が、上からした。  見上げると、屋根の上に赤い髪《かみ》をした者が立っていた。 「桜丸《さくらまる》」  その者は、二人のもとへふわりと羽のように降《お》りてきた。  赤い長い髪《かみ》に白い肌《はだ》、赤っぽい目。そして、あざやかな桜柄《さくらがら》の、まるで女のような着物をまとっている。年のころは、子どもより少し上ぐらいの若者《わかもの》だった。 「こいつか! 人間を見るのは久《ひさ》しぶりだぜ」  ジロジロと不躾《ぶしつけ》な態度《たいど》にムッとした子どもだったが、その若者《わかもの》の身体に、黒|眼鏡《めがね》の男と似《に》たような入《い》れ墨《ずみ》があることに気づいて不思議に思った。 「桜丸《さくらまる》、この子を草紙屋《そうしや》へ連れてってくんねぇな。本が買いてぇらしい。そィでまァ、ついでにそこらへんをチョイと回ってだな、大江戸城《おおえどじょう》でも見物させてやってくンな」  男はそう言って、桜丸と呼《よ》ばれた者に小判《こばん》を渡《わた》した。 「ホ! コリャ、ありがた山の寒紅梅《かんこうばい》」  子どもは、男がついて来てくれぬのかと少し不安になり、そう感じる自分にハッとしたりした。  それを見抜《みぬ》いてか、男は子どもに言った。 「桜丸と行かせるにゃあ、訳《わけ》がある。じきにわかるぜ」  男はニヤリとした。 「俺《おれ》ぁ、桜丸《さくらまる》。お前《め》ぇ、名は?」  桜丸が子どもに尋《たず》ねたが、子どもが答える前に、男が言った。 「名はねぇ」 「!」  子どもは、このことには特別な意味があるのだとわかった。 「ふぅん!?」  桜丸も意味深に頷《うなず》いた。 「そイから、こいつァまだケガ人なんでな、無理させねぇよう頼《たの》むぜ」  男の気遣《きづか》いと、自分の肩《かた》を抱《だ》く手の温かさに、子どもは陶然《とうぜん》とする思いだった。こんな何気ないことが、こんなにも胸《むね》を打つものなのかと驚《おどろ》いた。 「俺ぁ、うさ屋にいるからヨ」 「アイアイ、がってん」  それから桜丸は、子どもに背《せ》を向けてしゃがんだ。 「おぶさりな」 「え?」 「いいから」  桜丸と男に促《うなが》されて、子どもは桜丸の背《せ》におぶさった。 「そイじゃあ、行くぜ!」  桜丸がトンと地面を蹴《け》ると、その身体がたちまち屋根より高く浮《う》き上《あ》がった。 「うお……おおお!!」  子どもは、思わず桜丸にしがみついた。  風を切り、桜丸は舞《ま》い上《あ》がる。視界《しかい》いっぱいを甍《いらか》の波が埋《う》め尽《つ》くす上空まで。  空を、飛んでいる。  子どもは、頭が真っ白になった。  耳元を風が駆《か》け抜《ぬ》ける音がする。すぐそこを鳥が飛んでいる。  なんとも言えない浮遊《ふゆう》感と爽快《そうかい》感。  桜丸《さくらまる》は、高度がやや下がると、高い鐘楼《しょうろう》の屋根をまたトンと蹴《け》った。するとまた高度が上がり、二人はグングンと空中を飛んだ。足元に、大江戸《おおえど》の町が川のように流れてゆく。こちらを見上げ、指をさしている者もいた。 「すげ……! すっげ———っ!!」  子どもの全身に喜びと驚《おどろ》きがみなぎり、それは叫《さけ》びとなって口から飛び出した。 「すっげーよ! 空を飛んでるよ! 信じらんね———!!」  桜丸は笑った。 「俺《おれ》は、�風の桜丸�! 風をとらえて空を飛ぶなんざ、朝飯前よ!」  天空の庵《いおり》から見た、あの大江戸城がみるみる近づいてきた。 「すっげ! でけえ!!」  巨大《きょだい》にして荘厳《そうごん》。何重もの黒光りする城壁《じょうへき》に囲まれ、仕切られた内郭《ないかく》。そびえ立つ櫓《やぐら》の数々、広大な庭あり、巨大な湖あり、堀《ほり》あり。立《た》ち並《なら》ぶ屋敷《やしき》も、金、銀、朱《しゅ》、黒、青などに彩《いろど》られ、なんという華《はな》やかさ。城壁《じょうへき》には色とりどりの旗が何百と立てられ、風に優雅《ゆうが》にはためいていた。 「すげえ! すげえ!」  子どもは、桜丸《さくらまる》の背中《せなか》で震《ふる》えた。信じられないものを自分の目で見ていることが信じられない、そんな不思議な思いで心も身体《からだ》もいっぱいになった。天空の庵《いおり》の池に映《うつ》るものを見るのとでは、やはり全く違《ちが》う臨場感《りんじょうかん》に圧倒《あっとう》された。 「こぉーれ! 許可《きょか》なき者は、大江戸城上空を飛ぶこと、まかりならん!」  金棒《かなぼう》を持った鬼《おに》が飛んで来た。  子どももよく知っている姿《すがた》の鬼が、本物の鬼が口をきいているのを見て、子どもはさらに感動した。 「すげぇよ……!」  桜丸《さくらまる》を見て、鬼《おに》が言った。 「そなた、魔人《まじん》か!? 魔人といえど、飛行|許可《きょか》なくして大江戸城《おおえどじょう》上空は飛べぬぞ」 「ヘイヘイ、そいつぁ、承知《しょうち》の助《すけ》ザ衛門《えもん》」  桜丸《さくらまる》はそう言うと高度を下げ、やがて地上に降《お》りた。 「大江戸城正門だ」  山のように高く、巨大な門。黒塗《くろぬ》りの二|枚《まい》の扉《とびら》には、黄金の色で複雑《ふくざつ》な模様《もよう》が描《か》き込《こ》まれていた。その中心には、これまた巨大な鬼のものらしきしゃれこうべが二つ据《す》えられ、睨《にら》みをきかせている。 「すげぇ……」  子どもは、そう言うしかなかった。  何もかもが巨大で美々しく、ものすごい力を感じる。  別世界にいるのだから、当たり前だと思った。化け物たちが魔法《まほう》で作り上げたものなのだから、自分から見れば信じられないものであるのは当たり前だと。  それでも、この胸《むね》の高鳴りを、言葉を失うほどの感動をとめられない。  子どもは感動している自分に感動して、大江戸城を見上げて呆然《ぼうぜん》と立《た》ち尽《つ》くした。  それから子どもは桜丸《さくらまる》に連れられ、大江戸の町を歩いた。  呉服屋《ごふくや》や味噌屋《みそや》や油屋などが並《なら》んだ町並《まちな》みは自分の知っている江戸と同じでも、行き交《か》う者たちの異形《いぎょう》の姿《すがた》をごくごく近くで見て、その質感《しつかん》や匂《にお》いを感じて、子どもは叫《さけ》び出しそうに興奮《こうふん》していた。 「おっ、桜丸じゃないかエ」  着物をパリッと着込《きこ》んだ二足歩行の狐《きつね》が声をかけてくる。  足元を、わけのわからない綿《わた》の塊《かたまり》のようなものが転げてゆく。  スーツやマントなど、洋服を着た者もみかけた。  子どもにわかる言葉の他《ほか》にも、理解不能《りかいふのう》の言語のようなものや鳴き声のようなものも聞こえてくる。 「オヤま、何を連れてんだエ、桜丸《さくらまる》? 珍《めずら》しいのゥ」  子どもを見てそう言うのは、人間の女のようだが口元に細かい牙《きば》が並《なら》んでいるモノ。子どもはちょっと緊張《きんちょう》したが、女は大らかに笑った。 「アッハッハ。とって喰《く》やしないよ。そういうことは、この大江戸《おおえど》でもご法度《はっと》サァ」  この時初めて子どもは、ここは「法治国家」なのだと気づいた。化け物たちが無秩序《むちつじょ》に跋扈《ばっこ》している混沌《こんとん》の世界だと、つい思《おも》い込《こ》んでいる自分がいた。 「そうか、そうだよな。でなきゃ、こんなに平和に……普通に[#「普通に」に傍点]暮《く》らせないよな」  天空の庵《いおり》の庭の池に映《うつ》る妖怪《ようかい》たちの暮《く》らしを見てきたはずだ。男が「お前《め》ぇと何も変らねェ」と言ったはずだ。  子どもは、あらためて町の風景を見た。  道の両側に商家は華《はな》やかに立《た》ち並《なら》び、さまざまなモノたちが買い物をし、笑いながら通りゆき、駕籠《かご》かきは走り、「でいでい、でいでい」と物売りが横切ってゆく。  暮《く》らしぶりが違《ちが》うから当たり前のことでもあるが、自分が元いた世界よりも、よほどおだやかで平和な世界のように思えた。 「オッ、桜丸!」  黒の紋付袴《もんつきはかま》に刀を二本差しの、| 狼 男 《おおかみおとこ》が現《あらわ》れた。 「百雷《ひゃくらい》」  恰好《かっこう》からして、その狼男が「侍《さむらい》」であることは子どもにもわかった。顔は黒毛の狼だが、身体はたくましい人間のそれで、子どもは思わず、 (カッコいい……! ゲームのキャラみてえ) と思ってしまった。 「人間の子じゃねぇか!? コリャ、珍《めずら》しい」 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》のとこにいるのさァ。今日は大江戸《おおえど》見物ってわけだ」 「鬼火の? 相変わらず酔狂《すいきょう》なこった」  | 狼 侍 《おおかみざむらい》は苦笑いした。 「オイ、お前《め》ェ。もう�菊屋《きくや》�にゃあ行ったかイ? 大江戸《おおえど》見物なら、菊屋の菓子《かし》を食わにゃあ、始まらねぇよ」 と言うと、狼侍はズンズンと子どもの手を引いた。  毛むくじゃらで長く鋭《するど》い爪《つめ》があるが、その手は大きくて温かくて、そこに自分の手がギュッと握《にぎ》りこまれていることが、子どもはひどく照《て》れ臭《くさ》かった。 「お前ぇは、ホンっと甘《あめ》ぇモンが好きだなぁ、百雷《ひゃくらい》」  桜丸《さくらまる》は呆《あき》れ顔で言った。  菓子屋「菊屋」は、客で大賑《おおにぎ》わいしていた。  甘《あま》い匂《にお》いや豆の香《こう》ばしい香《かお》りがたちこめ、色とりどりの餅《もち》やら饅頭《まんじゅう》やら団子《だんご》やらがギッシリと並《なら》び、まるでオモチャ売り場のように実に華《はな》やかで楽しげだった。 「これはこれは、八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》。いつも御贔屓《ごひいき》に」  ずんぐりした丸っこい狸《たぬき》のようなモノが、人ごみからちょこちょこと出てきた。 「おう、菊屋。相変わらず商売繁盛《しょうべえはんじょう》で結構《けっこう》なこったな」 「お陰《かげ》さんにござんす」 「今日は異界《いかい》の客人に、大江戸《おおえど》一の菓子《かし》を食わしてやろうと思ってな」  狸男《たぬきおとこ》は、子どもを見て少しだけ目を丸くしたが、それから深々とお辞儀《じぎ》をした。 「それはそれは光栄なことで。異界のお方にも胸《むね》を張《は》ってお勧《すす》めできる菊屋の菓子でござんす。どうぞ、ご存分《ぞんぶん》に」  この世界で、「人間」というものは確《たし》かに珍《めずら》しいに違《ちが》いないようだが、大した意味もないようだ。 「外人? みたいなもん?」  買い物をしている客たちも、子どもよりも桜丸《さくらまる》や| 狼 侍 《おおかみざむらい》の方を見ているようだ。 「そぉれ、俺《おれ》のお勧めの菓子一|揃《そろ》いだ!」  狼侍は、ドサッと大きな紙包みを子どもに持たせた。包みの中には、大福に三色|団子《だんご》、磯辺《いそべ》、おはぎ、味噌《みそ》焼き、干菓子《ひがし》、そして棒飴《ぼうあめ》が入っていた。 「こ、こんなに食えねえよ!」 「いいや、食える! いいから食ってみろ。あっという間だぞ」 「お前ぇと一緒《いっしょ》にすンなよ、百雷《ひゃくらい》」  桜丸《さくらまる》が笑った。| 狼 侍 《おおかみざむらい》も笑った。つられて子どもも笑った。  笑いながら、子どもはなぜか鼻の奥《おく》がツンとするのを感じた。 「そイじゃあな。元気でな」  狼侍は、子どもの頭をその大きな手でそっと撫《な》でた。 「ありがとう……」  そう言った自分に、子どもは心底|驚《おどろ》いた。 「ありがとうなんて——初めて言った……」  自分が「ありがとう」という単語を知っていることにすら、子どもは驚いた。  思わず、泣きそうになった。 「鬼火《おにび》によろしく言っといてくンな、桜丸。あんまりフラフラしてンなとな」 「あいヨ」  狼侍は、手を振《ふ》って去って行った。子どもはズシリと重い菓子《かし》の包みを抱《かか》えて、その黒い姿《すがた》を見送った。  桜丸が、子どもの肩《かた》をポンと叩《たた》いた。 「その菓子《かし》、見晴らしのいいとこで食おうぜ」  桜丸《さくらまる》は子どもを背負《せお》い、そのあたりで一番高い寺の屋根へと舞《ま》い上《あ》がった。  二人は屋根に腰《こし》かけ、饅頭《まんじゅう》を頬張《ほおば》った。 「すげー! 富士山《ふじさん》があんなに近くに見える!」  晴《は》れ渡《わた》る青空に、五色の雲がたなびく。その中を、うねるように龍《りゅう》が飛んでいた。子どもたちの上げる凧《たこ》が、気持ち良さそうに風を受けていた。  その凧のように気持ちよい風に頬をなぶられ、子どもは身も心も爽快《そうかい》だった。餡《あん》の甘《あま》さが身体中にしみわたり、ため息が出た。 「うまいなあ。饅頭《まんじゅう》なんか食ったの、久《ひさ》しぶりだ」 「なんでお前《め》ぇ、甘《あま》いもんは苦手かエ?」 「ううん、そうじゃねぇけど……。お菓子《かし》は食ってたよ。チョコとか、ガムとか……」 「お前ぇの世界にも、うまい食いもんはいっぱいあんだろうなア」 「……あっても……」  あっても味わえなければ無いのも同じだと……子どもはその言葉を呑《の》みこんだ。うまいものをうまいと感じるには、そう思える場所がいるのだと、子どもは初めて知った。 「ただ食ってるだけじゃ、ダメなんだ……」  天空の庵《いおり》での、うまい水を思う。  子どものために、丁寧《ていねい》に用意された膳《ぜん》を思う。  | 狼 侍 《おおかみざむらい》が買ってくれた菓子を思う。  男が側《そば》にいることを、思う。  桜丸《さくらまる》とともに、富士《ふじ》を眺《なが》めることを思う。  特別なものでもない。  特別なことでもない。  子どもは、また泣きたくなった。 [#改ページ] [#挿絵(img/02_030.png)入る]   異界《いかい》にて生まれ変わる  めし処《どころ》「うさ屋」には、関取のような大きな兎《うさぎ》がいた。 「人間を見るなァ、初めてだ。寿命《じゅみょう》がのびらあ」  大兎《おおうさぎ》は、煙管《きせる》を吹《ふ》かして笑った。子どもは大兎《おおうさぎ》を見て、 「ぬいぐるみみたいに可愛《かわい》いのに、オッサンなんだ」 と驚《おどろ》いてから、無性《むしょう》におかしくなって腹《はら》を抱《かか》えて笑ってしまった。 「何が面白狸《おもしろだぬき》の腹鼓《はらつづみ》」 「尻尾《しっぽ》が見えてやしねぇか、うさ屋?」 「何のことだエ、桜丸《さくらまる》?」 「化け狸《だぬき》の化《ば》け損《そこ》ねじゃねぇよなア、その腹《はら》ア」 「ウアッハッハッハ!」  大兎《おおうさぎ》は、大きな腹《はら》をポンポンと叩《たた》いた。 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》ぁ、来てるかイ?」 「上で転がってるヨ」 「うさ屋」の二階の広間に、黒|眼鏡《めがね》の男は寝《ね》そべっていた。 「おゥ」  男は子どもに笑いかけた。子どもは、男のもとへ駆《か》け寄《よ》ってしまった。 「町ン中ァ、面白《おもしろ》かったかイ?」 「大江戸城《おおえどじょう》を空から見たぜ! すごかった!!」  胸《むね》にいっぱいの思いが、言葉となって溢《あふ》れた。 「ただでかい建物じゃねぇんだな! ものすごい力の塊《かたまり》だって思ったよ。なんかピカピカしてるしキラキラしてるし、お祭りみたいだった!」 「ほぉ!?」 「町ん中も面白《おもしろ》かったぜ! 人間みたいな奴《やつ》も結構《けっこう》いるのな! キツネとかタヌキとか、一つ目とか鬼《おに》とか、どっかで見たような奴から、なんか全然わけわかんねぇ奴とか! いっぱいいた!!」  子どもは、大江戸《おおえど》の町を実際《じっさい》に歩いたことや、| 狼 侍 《おおかみざむらい》に菓子《かし》を買ってもらったことを話した。 「百雷《ひゃくらい》に会ったのかイ」 「あンまりフラフラしてんなと言ってたぜ」  桜丸《さくらまる》から伝言を聞いて、男は肩《かた》をすくめた。 「そいつに買ってもらった饅頭《まんじゅう》をな、すっげぇ高い屋根の上で食ったんだ。富士山《ふじさん》を眺《なが》めながらだぜ! すっげぇ贅沢《ぜいたく》な感じがしたよ!」  まくしたてるようにしゃべる子どもの話を、男は笑って聞いていた。  ひとしきりしゃべると、子どもはハッと我《われ》に返った。  男が黙《だま》って自分の話を聞いていること、そのおだやかな笑顔《えがお》を見て急に照《て》れ臭《くさ》くなった。ちょうど、| 狼 侍 《おおかみざむらい》に手を引かれた時のように。  顔が熱くなり、汗《あせ》が噴出《ふきだ》す。子どもは唇《くちびる》を噛《か》みしめて俯《うつむ》いた。 「どうしたイ?」 「……何を……ベラベラしゃべってんだろうって思って……俺《おれ》……」 「ふ」  男は軽く笑い、煙管《きせる》の煙《けむり》を吐《は》いた。 「お前《め》ぇがホントにやりてぇことをしてるんだ。何も照れるこたぁねえやナ」 「ホントにやりたいこと……!?」 「せっかく枷[#「枷」に傍点]がねェんだ。好きにするサ」 「枷《かせ》……」 「時に桜丸《さくらまる》、草紙屋《そうしや》にゃあ、行ったのかエ?」 「あ、忘《わす》れた」  男の酒を呑《の》みながら、桜丸は舌《した》を出した。 「お前《め》ぇなあ」 「本なら向かいの大首《おおくび》ンとこで貸《か》してもらやどうだエ? あそこにゃ、いろいろ揃《そろ》ってるゼ」 「……大首か……」  男は、灰吹《はいふ》きの縁《ふち》で煙管《きせる》をコンと叩《たた》いた。  子どもは「うさ屋」の向かいへ連れて行かれた。  戸を開けると十|畳《じょう》ほどの広間があり、五、六人の異形《いぎょう》たちが、本を読んだり碁《ご》を打ったりしていた。  その間を、どう見ても醤油《しょうゆ》で煮《に》た煮卵《にたまご》に手足の生えたモノが、ちょろちょろと動き回っていた。 「おお!? コリャ、鬼火《おにび》の旦那《だんな》」 「ごきげんさんで」 「相変わらずヒマそうだなあ、お前《め》ぇら。ええ、オイ?」 「ソリャ、お互《たが》いサンマの一夜|干《ぼ》しってネ」  大笑いする広間の奥《おく》の方から、耳をつんざくような大声が轟《とどろ》いた。 「鬼火が来ただあ!? また面倒持《めんどうも》ち込《こ》む気じゃねえだろうな! 帰《けぇ》れ、帰れっ!!」 「まァまァ、大首の。つれねぇこたァ、言いっこナシだぜ」  男はそう言いながら、先に奥《おく》の間へ行った。 「こいつァ、珍《めずら》しい! 人間だぜ」 「へぇ!? 生きてる奴《やつ》ァ、初めて見るな」  広間の異形《いぎょう》たちは、子どもを見て目を見張《みは》った。 「旦那《だんな》ンとこの客人だ。大江戸《おおえど》見物中サ」 と、桜丸《さくらまる》が言った。 「いいねぇ、大江戸見物!」 「どっから来たかは知らねぇが、そう大して違《ちが》わねぇだろう!?」 「碁《ご》を打たねぇか? お前《め》ェのとこにも碁はあるかイ?」  異形《いぎょう》たちは気さくに話《はな》し掛《か》けてきた。  煮卵《にたまご》が、子どもと桜丸にお茶を運んできた。 「これ、何だ?」  子どもは煮卵をつかんでみた。  大きさは鶏《にわとり》の卵より二回りほど大きいが、形といいつるんとした感じといい、殻《から》をむいた茹《ゆ》で卵そのもので、目も鼻もないが細い手足のようなものが生えていて、子どもの手の中でちょっとジタバタした。 「大首の親方の手下どもさ。このかわら版屋の掃除《そうじ》やら何やら、一切合財《いっさいがっさい》の面倒《めんどう》を見てるのヨ」 「かわら版屋……。ここ、新聞社か」  壁《かべ》一面の本棚《ほんだな》には、本やら浮世絵《うきよえ》やらかわら版が納《おさ》められていた。子どもは、かわら版の一|枚《まい》を手に取ってみた。 [#ここから2字下げ]  吉原大捕《よしわらおおと》り物帳《ものちょう》 かねてより内偵《ないてい》中の「すみや」での阿片《あへん》の宴《えん》を、八丁堀《はっちょうぼり》が一斉《いっせい》手入れの一幕《ひとまく》。 禿《かむろ》になりすました岡引《おかっぴき》が合図の一声を張《は》り上《あ》げると、 天井《てんじょう》から床《ゆか》から窓《まど》から千の同心、岡引、下引《したっぴき》どもがなだれ込《こ》み、 下手人《げしゅにん》どもを一網打尽《いちもうだじん》の大手柄《おおてがら》。 だが一味の蝦蟇《がま》が毒煙《どくけむり》を吐《は》いて、臭《くさ》い息が霜月《しもつき》の夜霧《よぎり》の如《ごと》くたちこめ、 遊女は鼻をおさえ泣きながら逃《に》げまどうは、 窓《まど》から逃《に》げんとした蝙蝠男《こうもりおとこ》を捕《と》らまえた同心《どうしん》が、蝙蝠男ともども屋根を転げ落ちるは、 ものすごい騒動《そうどう》に。 [#ここで字下げ終わり] 「アハハッ!」  その大騒動の様子が目に浮《う》かぶようで、子どもは大笑いした。そして、挿絵《さしえ》に描《えが》かれた黒い| 狼 侍 《おおかみざむらい》を見て桜丸《さくらまる》に言った。 「これ! さっきの!」 「八丁堀《はっちょうぼり》同心の百雷《ひゃくらい》だ。| 狼 男 《おおかみおとこ》のくせに甘《あま》いモンに滅法界《めっぽうけぇ》目がねェでんつくだが、同心の腕《うで》ぁ、確《たし》かヨ」 「オイ、お前《め》ぇ。こっちイ来な」  奥《おく》から顔を出した男が手招《てまね》きした。  子どもが奥《おく》の間に入ると、そこには壁《かべ》一面はあろうかというどでかい首が、鎮座《ちんざ》ましましていた。子どもはその真《ま》っ赤《か》な首だけ入道を見て、口をアングリさせた。  そんな子どもに近づいて握手《あくしゅ》を求めてきたのは、チョッキ姿《すがた》にハンチング帽《ぼう》をかぶった銀色の猫《ねこ》だった。 「ヤァ、これはこれは。人間を見るのは久《ひさ》しぶりだ。ボクは、ポー。この大首の親方のかわら版屋で文芸を担当《たんとう》している。そこの白い塊《かたまり》は、挿絵師《さしえし》だよ。名前は……みんなは白助《しろすけ》と呼《よ》んでる。どうぞヨロシク」  真っ白い塊《かたまり》も、ぺこりとお辞儀《じぎ》をした。 「あ……えと……ドモ」 「名はない」と言われた子どもは、名乗らず頭を下げた。 「酔狂《すいきょう》なこったな、鬼火《おにび》の。人間を拾《ひろ》ってどうする気だ?」  大首は、怒鳴《どな》るようにしゃべった。 「どうもしねェよ。決めるなぁ、この子だ。したが何を決めるにせよ、いろいろ知らなきゃなア」  男の言葉が胸《むね》に迫《せま》った。  大首は、男をギロリと睨《にら》んだ。 「のかりんだの。まだガキじゃねぇか。親のことをどうすんでエ」  その言葉に、子どもは反射《はんしゃ》的に叫《さけ》んだ。 「親なんかいねーよ!」  しかし、大首にその三倍ぐらい怒鳴《どな》り返された。 「いねーはずねーだろうが! ならお前《め》ェはどっから生まれてきたんだ。側《そば》にいねぇにしろ死んだにせよ、ガキは親が恋《こい》しいもんだ!!」 「ハッ! 親が恋しいって? あんな親が恋しいもんか! 死んでくれてた方がまだマシだぜ!!」  大首が、ぐわりと目玉を剥《む》いた。 「馬鹿野郎《ばかやろう》が! 何ふて勝手[#「ふて勝手」に傍点]言ってやがる、こンクソガキ!!」  ドカン!! と、落雷《らくらい》の如《ごと》き怒鳴《どな》り声が轟《とどろ》いた。壁《かべ》がビリビリと震《ふる》えた。 「あ〜、星が飛んだぜ」  男と桜丸《さくらまる》は頭を振《ふ》り、銀色|猫《ねこ》は毛がふくらんで倍ぐらいの大きさになっていた。  吹《ふ》っ飛《と》ぶかと思うほど怒鳴《どな》られて、子どもは目をパチクリさせた。真《ま》っ赤《か》な大首の、燃《も》えるような金の目玉に睨《にら》み据《す》えられ、足がすくんだ。 「生利《なまり》をきくんじゃねえ。ガキはな、親を恋しがるもんだ。恋しがっていいンだよ。誰《だれ》に遠慮《えんりょ》がある?」  その言葉の打って変わった静かな響《ひび》きに気が抜《ぬ》けて、子どもはその場へへたり込《こ》んだ。  恋しがっていい。  誰《だれ》に遠慮《えんりょ》がある。  枷《かせ》がねえんだ。好きにするサ。  恋《こい》しがっても、恋しがっても、その思い出は真っ黒に塗《ぬ》りつぶされている。 「いい思い出が一つもない親を恋しがっても……みじめなだけだろ」  呟《つぶや》くように子どもは言った。  その肩《かた》を、ふわっと温かいものが抱《だ》いた。銀色|猫《ねこ》だった。緑色の美しい瞳《ひとみ》が、子どもをみつめていた。 「それは違《ちが》うよ。みじめなんかじゃなくて、そんな自分は……愛《いと》しいのサ」 「……っ!」  胸《むね》にグッとこみ上げてくるものを振《ふ》り払《はら》うように、子どもは表へ駆《か》け出《だ》した。 「厄介《やっけえ》もっけいだの」  大首は舌打《したう》ちした。 「さっさと元の場所へ帰《けぇ》してやれ、鬼火《おにび》の。あンな真《ま》なッ面《つら》に居座《いすわ》られちゃ、立ち切れねエ!」  男は笑って言った。 「そン時ぁ、よろしく頼《たの》むぜ、大首の」 「とっけもねえ!!」  また一段《いちだん》とものすごい怒鳴《どな》り声が轟《とどろ》き渡《わた》った。  子どもは通りを夢中《むちゅう》で走った。  その先に、川が流れていた。白い川原と青い川面《かわも》が輝《かがや》いていた。  土手に並《なら》んだ桜《さくら》が今を盛《さか》りと咲《さ》き乱《みだ》れ、風が吹《ふ》くと満桜《まんざくら》が轟々《ごうごう》と散った。 「ハ……すげ……!」  その景色《けしき》があまりに見事で、美しくて、子どもは涙《なみだ》が溢《あふ》れた。美しさに胸《むね》を打たれたにしては悲しい涙《なみだ》だったけれど、子どもは景色《けしき》のせいにして泣いた。 「もう、恨《うら》まなくていい」  その言葉とともに、子どもの憎《にく》しみも、元の世界の時間のようにどこかへ流れ去った。  後に残ったのは、悲しみだった。  すべてがなくなって、子どもはやっと悲しむことができた。  すべてがなくならなければ、子どもは悲しむことすらできなかった。  花見の見物人は多かったが、皆桜《みなさくら》に見惚《みと》れて子どもに気づく者はいなかった。まさに吹雪《ふぶき》の如《ごと》く舞《ま》い散る桜《さくら》に、ヤンヤの喝采《かっさい》が送られる。その歓声《かんせい》にまぎれ、子どもは声を上げて泣いた。  やがて、散りゆく桜の花びらの一部が固まり、ひらひらと羽ばたいて空へむけて舞《ま》い上《あ》がった。それは、まるで桜色の帯のようで、川原から空へ何本もの桜の帯が伸《の》び上《あ》がった。花見客がいっそう大きな歓声《かんせい》を上げた。子どもは、その不思議な光景に見惚れた。 「桜に化けていた妖蝶《ようちょう》だヨ。春が終わるんで、渡《わた》りを始めたのさ」  黒|眼鏡《めがね》の男が側《そば》に来ていた。 「夏中かけて南下して南の島へ行って、今度《こんだ》ぁそこで葉っぱに化けて暮《く》らすのよ」 「なんでわざわざ遠くへ行くんだ?」 「てめぇの一番暮らしやすい場所で暮らすためサ」  二人は、並《なら》んで妖蝶《ようちょう》の渡《わた》りを眺《なが》めた。  青い空の彼方《かなた》へと、優雅《ゆうが》に飛び去る桜色《さくらいろ》の精《せい》。やがてそれらは、別の場所で別の姿《すがた》で生きる。  晩春《ばんしゅん》の景色《けしき》を、子どもはいつまでも見つめていた。  朝霧《あさぎり》が晴れ、天空の庵《いおり》からは今日も大江戸城《おおえどじょう》の天守閣《てんしゅかく》がよく見えた。  空は清清《すがすが》しく晴《は》れ渡《わた》り、黄金色に輝《かがや》く太陽の光がまっすぐに降《ふ》りそそいでいた。その光を全身に浴びると、力が湧《わ》くような気がした。 「まるで、向日葵《ひまわり》になった気分だな」  子どもは、そう思う自分を笑った。  花が、とりわけ向日葵が嫌《きら》いだった。  いつも太陽に顔を向け、まっすぐに立つその姿《すがた》が、一片《いっぺん》の曇《くも》りもなく、汚《けが》れもないあり方が憎《にく》らしくて。  とても「まっすぐ」には生きていない自分が、いつも暗いじめじめした場所しか居所《いどころ》のない自分が、見下されているような気がして。  向日葵を見かけるたびにへし折って、踏《ふ》みつけてやった。 「ごめん」  馬鹿《ばか》なことだとわかっていたことを、今やっと素直《すなお》に謝《あやま》ることができる。  向日葵は、あるがままにあるだけ。だから美しかった。  見上げる空は青く、陽《ひ》の光は煌《きらめ》き、山も、緑も、水も、こんなにも美しく胸《むね》に迫《せま》る。美しいと感じる自分がいる。 「なんでこんなに綺麗《きれい》なんだ?」  子どもは男に尋《たず》ねた。 「生きているからさ。お前《め》ぇが、ちゃんと生きているから、そう感じられるのさ」 「俺《おれ》が……ちゃんと生きてるから……」  その言葉の意味がよくわかり、胸《むね》が痛《いた》んで泣けてきた。  子どもは、男の胸に飛《と》び込《こ》んで泣いた。  今、確《たし》かに生きている自分を愛《いと》しく思う。  そして、生きていなかった、生きていられなかった自分が、悲しくて、悲しくて……。  涙《なみだ》が、止まらなかった。 「ここに、残るよ」  子どもはキッパリと言った。 「元の世界でもやり直せると思う。でも、どうせなら俺《おれ》は———、|0《ゼロ》からやり直したい」  誰《だれ》に遠慮《えんりょ》もなく、何の枷《かせ》もない世界。  だから、すべてを素直《すなお》に感じられる。  ここで驚《おどろ》き、感動し、笑い、泣いてみたい。本当の自分を、もっと知りたい。  できなかったことをしたい。人を信じること。人を愛すること。 「そうだよ、俺は……恨《うら》んで、憎《にく》んで、信じなくて、自分勝手にそんなものばっかり膨《ふく》らませて、自分で自分を縛《しば》り付けて、俺は———、そんなものを……全部|捨《す》てるんだ!」  子どもは、大空に向って声を限《かぎ》りに叫《さけ》んだ。 「俺は、自由だ———っ!!」  風が、子どもの頬《ほお》をなぶってゆく。  もう違《ちが》う顔をしたその横顔。  瞳《ひとみ》は迷《まよ》うことなく、まっすぐに前を見つめる。大江戸《おおえど》の町を。 「それでいいんだな?」  そういう男の黒|眼鏡《めがね》の向こうを、子どもは見つめ返した。 「ここへ落ちてきた意味、あんたに拾われた意味は……ここにいなきゃわからねぇだろ、鬼火[#「鬼火」に傍点]の旦那[#「旦那」に傍点]?」  男は、子どもの頭を軽く撫《な》でた。 「そイじゃあまァ……やってみるか、雀[#「雀」に傍点]」 「すずめ!?」  男は子どもの後ろ頭の、ちょんとくくった短い髪《かみ》をひっぱった。 「雀《すずめ》の尻尾《しっぽ》の雀サ」 [#改ページ] [#挿絵(img/02_051.png)入る]   遠きにありて思う  雀《すずめ》は本を借りに、再《ふたた》び大首《おおくび》のかわら版屋を訪《たず》ねていた。 「へぇ、雀というのかい。可愛《かわい》い名前だねぇ」  ポーに目を細められて、雀は照《て》れ臭《くさ》かったが悪い気はしなかった。 「君にピッタリだよ」  自分には「可愛い」ことが似合《にあ》うのだと、それが新鮮《しんせん》に思える。  可愛いなど、侮《あなど》りの言葉でしかなかった。  今は、素直《すなお》に「ありがとう」と言えばいいのだ。それが嬉《うれ》しい。心が軽い。  もっといろんなことを話してほしいと思う。  もっといろんなことを話したいと思う。 「それで、雀《すずめ》? 君はこれからどうするんだい?」 「まだわかんねえ」  雀は、棚《たな》から本を選びながら言った。 「この世界のこともまだわかんねぇし。とりあえず、ケガがちゃんと全部治ったら、旦那《だんな》のとこを出るってことは決まってるけど」 「お前《め》ぇをここへ置いとくわけにゃ、いかねェよ」  ここに残ると鬼火《おにび》の旦那に告げた後、そう言われた。雀はこっくりと頷《うなず》いた。  この天空の庵《いおり》が、この世界の中でもとびきり特別な場所であることは、雀にもわかっていた。 「俺《おれ》も……ここじゃなくて、町の中で暮《く》らしたい」  仙人《せんにん》のように下界を眺《なが》めて生きるのではなく、用意された膳《ぜん》をただ食べるのではなく、しっかりと大地へ足をつけ、飯を炊《た》き、洗濯《せんたく》し、仲間とまじって——— 「ちゃんと働いて……生きたい[#「生きたい」に傍点]」  この世界では何の力もない、ただの人間の自分が一体何をやれるのかわからない。それでも、 「金といやあ、盗《ぬす》むか、カツアゲるか、せびり取るしかなかった……。それよりはマシなことができるはずだ」  そんな生き方にウンザリしていた。だが、そうするしかなかった。それしか思いつかなかった。 「生まれ変わったからには、もうそんなことは二度としない。ちょっとでもいいから、まともな金を稼《かせ》ぐんだ!」  旦那《だんな》は、笑って頷《うなず》いた。 「なァに。ちょイと稼《かせ》げりゃ充分《じゅうぶん》さ。ここじゃあな」  雀《すずめ》も、大きく頷いた。 「だろ!?」 「ちゃんと働いてちゃんと稼《かせ》いでる奴《やつ》が……ホントは羨《うらや》ましかったんだ。口じゃバカにしてたけどな。まともな奴をバカにしてなけりゃ……やってられなかった。そんなバカなこととも、もうおサラバさ!」  雀《すずめ》は、山のように本を抱《かか》えて笑った。 「いい話だな〜」  ポーはうっとりした。  雀は、本の山を持って大首《おおくび》の親方の前へ行った。きちんと座《すわ》り、三つ指をつく。 「こんだけ貸《か》して下さい、親方」  親方は、大皿のような目玉をギロリと剥《む》いた。 「ほぅ。お前《め》ぇ、本が好きか」 「うん。今まで読めなかった分、これからいっぱい読むんだ。この世界のことも勉強しなきゃな」  サッパリした顔でそう言う雀を、親方はじっと見つめた。 「それで[#「それで」に傍点]いいんだな、小僧《こぞう》」  静かな声だった。  鬼火《おにび》の旦那にも同じように問われた。「それでいいんだな」と。 「うん」  雀《すずめ》も静かに答えた。  旦那《だんな》も親方も同じことを雀に問うのは、本当は元の世界に戻《もど》るのが一番いいことだからだ。そこが雀にとって過酷《かこく》な場所であろうとも、それが一番自然なことだから。  だが、雀はここに残ることを選んだ。自分で考えて、自分で決めた。 「でも、元の世界から逃《に》げたなんて思われたくない。俺《おれ》はここで、まともに生きて、お前はよくやってるなって言われるようになるんだ」 「まともにとはどういうこった? 何をするんだ?」 「まだわからねぇ。でも見つけるよ。絶対《ぜったい》。みんなに認《みと》めてもらえるようなことをやりたいんだ。大工とか駕籠《かご》かきとか……商売の手伝《てつだ》いとか? 将来《しょうらい》は店を持つとか? 資格《しかく》がいるようだったら、勉強してそれを取る!」  楽しげな、でもどこか挑《いど》むような目つきで雀は言った。 「ちゃんとしたことをしなけりゃ、自分の居場所《いばしょ》なんて見つけられないんだ。それは……すごく思うんだ」 「自分の居場所とは、どこだ?」  静かに問うてくる親方に、雀は自分でも首を傾《かし》げながら懸命《けんめい》に答えを探《さが》した。 「どこ……っていうんじゃなくて……。そりゃ、自分の家なんだろうけど? そういう意味じゃなくて……。俺が、ちゃんと俺であること? 誰《だれ》に言っても俺だって……堂々としてられること?」 「お前《め》ぇは、そうじゃなかったのか?」  雀は、頭を振《ふ》った。 「全然……もう……なんか、どこに居《い》ても何をしても……フラフラして、ちゃんと地面に足がついてない感じだった。当たり前だよな。まともなことをやってなかったんだから。やることっていえば悪いこと、言うことも悪いこと。悪口を言って喧嘩《けんか》をして、盗《ぬす》んだり、誰かを傷《きず》つけたり、何かを壊《こわ》したり……俺は……それを�自由だ�なんて思ってた。好きにして何が悪いんだって……」  俯《うつむ》いてそう言う雀の顔は、少し蒼《あお》ざめていた。  親方も、ポーも、黙《だま》って聞いていた。  それからまた顔を上げ、親方を見た。 「俺《おれ》は……誰《だれ》にでも胸《むね》をはって、俺《おれ》ですって言えるようになりたいんだ。そしたらみんなが、そうか、お前かって、笑って返してくれるようになりたいんだ。その時に初めて、俺の居場所《いばしょ》ができた気がするんだ」  そう言う雀《すずめ》の目を、親方は真《ま》っ直《す》ぐに見つめ返していた。 「そのためには、何でもいいからまともなことをしなきゃならないんだ。そのためには……うん、家もいるな。家も探《さが》さなくちゃ」  雀《すずめ》は笑った。 「いい話だな〜」  ポーが再《ふたた》びうっとりした。 「ねぇ、雀《すずめ》。この世界に来て君が思ったこと……もっといろいろ聞かせてくれないかい?」 「俺《おれ》の?」 「うん。とってもドラマチックだよねぇ……。別の世界に来て、今までの自分を振《ふ》り返《かえ》ることができる。そして、そこからの再出発《さいしゅっぱつ》……ああ、何か一|編《ぺん》できそうだよ」  文芸|担当《たんとう》の銀色|猫《ねこ》は、ヒゲを撫《な》でてからピーンと弾《はじ》いた。  親方が、ガハハと笑った。 「そいつぁ、いい! それで一本|草紙《そうし》ができて、それが売れりゃあ、お前《め》ぇにも何かやるぜ、雀」 「何かと言わずに売上の一部をおやりよ、親方。まったく吝虫《しわむし》なんだから」 「俺の……話」  金よりも何よりも、雀は自分の話を聞いてもらえることの方が嬉《うれ》しかった。自分の思いや考えを、興味《きょうみ》を持って聞いてもらえる。それは、雀の胸《むね》を高鳴らせた。 「な……何? 何を話そう? えと……何が聞きたい?」  顔を真《ま》っ赤《か》にしてアタフタする雀を、ポーは笑いながらなだめた。 「まぁそう息勢引《いきせいひ》っ張《ぱ》りなさんな、雀《すずめ》。今すぐとは言わないから。雀の話したいことを追々聞かせておくれな」  その日はそれだけで、本を抱《かか》えて庵《いおり》へ戻《もど》ってきた雀だったが、本を読んでいてもソワソワと落ち着かず、頭の中をいろいろな思いがグルグルと渦巻《うずま》いた。 「お、何だェ、コリャ?」  部屋《へや》の畳《たたみ》一面、書き散らされた紙で埋《う》まるようだった。  旦那《だんな》が一|枚《まい》手に取ると、そこには拙《つたな》い文字が書《か》き綴《つづ》られていた。 『| 狼 侍 《おおかみざむらい》は、八丁堀《はっちょうぼり》の同心《どうしん》。狼《おおかみ》の顔に人間の身体。黒い毛に金色の目がカッコイイ。ファンタジーゲームのキャラみたい。でも甘《あま》いものが大好きで、子どもみたい』 「ハハッ」  旦那は声を上げて笑った。  紙に埋《う》もれて眠《ねむ》っていた雀が起き上がった。 「あ、旦那」 「全部お前《め》ぇが書いたのかイ?」 「へへ」  顔も手も墨《すみ》だらけにして、雀は笑った。 「ポーが、俺《おれ》の話を聞きたいって言ったんだ! こっちへ来てからの感想とか、前の世界と比《くら》べて思ったこととか! でさ、何から話していいか頭がグルグルしたんで、書き出してみようと思ったんだ」 「いい考えだ」 「だろ、だろ!」  書き直し、塗《ぬ》りつぶし、何度も言葉を間違《まちが》えながら、雀《すずめ》は、桜丸《さくらまる》と空を飛んだこと、大江戸城《おおえどじょう》に圧倒《あっとう》されたことの他《ほか》、光が美しいこと、水がうまいこと、桜《さくら》の妖蝶《ようちょう》を見て泣いたことなど、思いのたけを紙にぶつけていた。  それらを読んでいた旦那《だんな》は、文机《ふづくえ》の横にきちんとまとめられた束があるのに気づいた。それに手を伸《の》ばそうとしたとたん、 「あ、それはダメだ!」 と、雀に血相変えて止められた。 「えと、その……前の世界の嫌《いや》なこととか思い出してたんだ……。書き出しちまえば、ちょっとはスッキリするかなと思ってサ」  雀は、バツが悪そうに頭を掻《か》いた。 「書いてみたら、思ったよりずっとドロドロしたものになっちまって……でも、止《や》められなくて……へへ」  旦那は、雀の顔に手を当てて言った。 「お前《め》ぇ、熱があるんじゃねぇか? 根を詰《つ》めすぎたな」 「え? そ、そう?」 「まだケガが治《おさま》りきってねぇんだから、無理すんじゃねぇよ」  薬が効《き》いてぐっすりと眠《ねむ》り込《こ》んでいる雀の枕元《まくらもと》で、旦那は雀が見せたがらなかった紙の束を読んだ。  そこには、親に対する絶望《ぜつぼう》と世間への反発と憎悪《ぞうお》。そんな自分への嫌悪《けんお》が書きなぐられていた。多くの文字が、滲《にじ》んでぼやけていた。  紙の束は、そっと元に戻《もど》された。  通り雨がサラリと撫《な》でていった黄昏《たそがれ》の空。  夕陽《ゆうひ》に染《そ》まった深い谷間に、大きな虹《にじ》がいくつも立っていた。 「ふ〜む……」  大首のかわら版屋の奥座敷《おくざしき》で、雀《すずめ》の書いてきたものを読み、ポーは緑の目を大きく見開いた。 「面白《おもしれ》ぇな、コレ」  桜丸《さくらまる》は感心して言った。  雀《すずめ》は、嬉《うれ》しくてニコニコしていた。 「そうか。お前《め》ぇにゃあ、こう見えるんだなァ。大江戸城《おおえどじょう》が『大人が本気で作った、ものすごく高級な本物のオモチャの城《しろ》』みてェだとはなあ」 「面白《おもしろ》い表現《ひょうげん》だね」 「だってさ、大江戸城ってスッゲーでかくて、りっぱで、迫力《はくりょく》満点なんだけど、キラキラしててピカピカしてて、いろんな色の旗がいーっぱい立ってて、全体の色合いってか印象がお祭りみたいってか、遊園地みたいってか……テーマパークみたいな?」 「てーまぱーく?」 「とにかく、職人《しょくにん》がすンげー本気でバリバリ力入れて作ったオモチャっていうのが、一番ピッタリくるんだ」 「ほォー」  桜丸《さくらまる》もポーも感心した。  それから、雀の表情《ひょうじょう》から笑みがスッと引いた。 「いろいろ書いてたら、元の世界の嫌《いや》なことも思い出してサ。それも思い切って書いてみたんだ。それは……とても見せられないけどな」 と、雀はポーと桜丸に苦笑いして見せた。 「そういやあ、君はここへ来た時大|怪我《けが》してたんだよねぇ」 「仲間にボコられた」  雀は、テヘッと舌《した》を出した。少し胸《むね》は痛《いた》んだが、笑えるようになったことに、雀はしみじみと感謝《かんしゃ》したい気持ちだった。 「悪い仲間と悪いことばっかりしてたって言ったろ。もともとお互《たが》いに信用しあうような仲間じゃないから、ちょっと行《い》き違《ちが》いがあると、すぐに大喧嘩《おおげんか》になったんだ。俺《おれ》らのバックにはヤクザがいたし、それ関係のことでしくじりがあったら喧嘩どこじゃすまなくて、ヘマをした奴《やつ》がどっかへ売られたり、殺されたって話もしょっちゅう聞いた」 「なんとも差《さ》し合《あ》い三宝《さんぼう》な話だな」  桜丸《さくらまる》が肩《かた》をすくめた。さほど深刻《しんこく》にとられていない風が、かえって雀《すずめ》の気を楽にした。 「どうにでもなれって感じだった。誰《だれ》も何もしてくれないから。親も……。だからもう、なんでもいいやって思ってたんだと思う。その時は、自分じゃいっぱしのワルを気取ってたけどな」  あの頃《ころ》の自分の本当の気持ちが、今はわかる。  まるで、元の世界の時間とともに過去《かこ》へ流れ去った遠い思い出を思うようだった。 「親は、俺《おれ》を仕方なく産んで、だから仕方なく育ててた。本当は邪魔《じゃま》で邪魔でしょうがなかったんだ。それを隠《かく》そうともしなかった。俺だって、そんな奴《やつ》が親なんて嫌《いや》で嫌でしょうがなかった……」  それでも、吐《は》き気《け》を堪《こら》えながら思い出を辿《たど》ってみれば、自分が世の中のすべてに反発する根源《こんげん》にはいつも親がいたことを、雀《すずめ》は思い知る。  本当は、親に振《ふ》り向《む》いて欲《ほ》しかったんじゃないか?  いつかは自分のことを、心配してくれたりするんじゃないか?  死んでも認《みと》めたくない願望に辿り着く。 「親方」  雀は、親方の方に向き直って言った。 「親方は、ガキは親が恋《こい》しいもんだって言ったよな。……その通りだと思う。俺は、ここへ来て初めて親のことを考えられたよ。思い出したら腹《はら》の立つことばっかりだけど……でも、親のことをこんな風にいろいろ考えたのは初めてで……。やっぱり、それはこっちにいるからこそだと思った」  親方は、目を閉《と》じて雀《すずめ》の話を聞いていた。 「あのまま……親の側《そば》にいたら……俺《おれ》はどんだけ時間がたっても、俺が大人《おとな》になっても親への気持ちは変わらずに、憎《にく》いとか悲しいって思いを抱《だ》いたまま、俺も親になってたと思う……」  そんな自分は想像《そうぞう》したくないけれど、そんな自分は自分が憎《にく》んだ親そのものになっていそうで、雀は恐《おそ》ろしかった。  今、すべてが遠くへ流れ去り、雀はやっと冷静に親を思うことができる。  自分を仕方なく産んで、仕方なく育てた。  いつも見下すように自分を見た。  何をするのも面倒《めんどう》くさそうで、邪魔臭《じゃまくさ》そうで、少しでも気に入らないと物を投げつけてきた。  いつも無言か、怒鳴《どな》るかのどちらかだった。 「そういうムカツクことを書きながらさ……よく覚えてるなあ俺って、思ったよ。なんでこんな細かいことまで覚えてんだって。ムカツクことばっかりなのに。嫌《いや》なことほどよく覚えてるっていうけど……そんな感じじゃないんだ。ああ、俺は……いつも親のことを見てたんだって……」  そう考えることに、もうなんの枷《かせ》もない。  誰《だれ》に、遠慮《えんりょ》もない。 「今はまだ、とても親を恋《こい》しいなんて思えないけど、俺はここで頑張《がんば》って生きて……。そしたらいつか、親を恋しいと思えるようになれるかなって……」  遠きにありて、思う。  遠きにありてこそ、思えるものがある。 「この世界には親はいないけど、その代わり俺《おれ》は、友だちをたくさん作るよ。本当に友だちっていえるような友だちも俺にはいなかったから、ここじゃいっぱい作るんだ!」  子どもらしい顔で、雀《すずめ》は笑った。 「なァに、ダチも親代わりも、じきにもういいからってぐれぇできらあ。お節介《せっかい》ばっかりだからなぁ、ここァ」 「君にはもぅ、ボクたちって友人も、鬼火《おにび》の旦那《だんな》って親代わりもいるしネ」  桜丸《さくらまる》とポーの言葉は、雀の心に染《し》み透《とお》った。幸せな気持ちになった。  大首《おおくび》の親方は、黙《だま》ったままだった。だが、その無言は心地好《ここちよ》かった。  鬼火《おにび》の旦那《だんな》も同じ。ここの大人《おとな》たちは、こういう時にはとても言葉少なだ。だがその無言が、雀の心を豊《ゆた》かに満たす。  親の無言には恐怖《きょうふ》と憎悪《ぞうお》を覚えたのに、どうしてこんなにも違《ちが》うのだろうと、雀の心には幸せと悲しさが交錯《こうさく》した。 「�ふぁんたじーげーむのきゃら�って、何だ?」  桜丸が紙を読みながら言った。 「あ、う〜んとな……。双六《すごろく》? みたいな? 物語になってる遊びがあって、そこに出てくる登場人物をキャラってんだけど、| 狼 男 《おおかみおとこ》って結構《けっこう》カッコいい役で登場するんだよ。強かったり、凶悪《きょうあく》だったり。百雷《ひゃくらい》の旦那って、まンまだよ。でも、カッコいいんだけど」 「甘《あめ》ぇものが滅法界《めっぽうけぇ》好きで、ガキのようだと」 「そう」 「ワハハハハ!」  桜丸と雀は大笑いした。  しばらく雀の書いたものに目を通していたポーが、やがておもむろに言った。 「ねぇ、雀。君の書いたこれを、かわら版として出してみないか?」 「え?」  雀はキョトンとした。 「ねぇ、親方。いい考えだと思わないかい?」  ポーは、さっきから目を閉《と》じて雀《すずめ》たちの話をじっと聞いていた大首《おおくび》の親方に言った。 「雀《すずめ》の異界《いかい》の目で見た大江戸《おおえど》の町……。僕《ぼく》たちもハッとさせられるところがあるよ。これは受けると見た。僕が書くよりも、雀のこの文章をそのまま使う方が、よりリアルで面白《おもしろ》い。もちろん多少の手直しはいるけどネ」 「なるほど。そいつァ、面白そうだ」  合点し合うポーと桜丸《さくらまる》を、雀はポカンと見ていた。 「続き物という形で一|枚《まい》一枚出していって、いずれは草紙《そうし》にまとめてまた売ればいい」 「う、売る? 売れるのか? これが??」 「売れるとも、雀《すずめ》。これは面白い読売になるよ!」  ポーは、呆然《ぼうぜん》とする雀の背中《せなか》を叩《たた》いた。 「これが……かわら版に……」  ポーに話を聞いてもらうだけでも嬉《うれ》しかった雀は、自分の書いたものがかわら版になるなんて想像《そうぞう》もできなかった。 「ねっ、親方!?」  目を閉《と》じたままの親方に、ポーがお伺《うかが》いをたてた。雀はゴクリと待った。  親方は、でかい両目をカッと開けて言った。 「いいだろう。やってみな」  この時の胸《むね》の高鳴りを、雀は永遠《えいえん》に忘《わす》れない。身体中が震《ふる》えて、本当に心臓《しんぞう》が口から飛び出すかと思った。 「あ、ありがとう、親方! も、もしこれが売れても、俺《おれ》、金なんかいらっ……」  雀の口を、ポーと桜丸が慌《あわ》てて塞《ふさ》いだ。 「そんなことを言っちゃいけないよ、雀!」 「出さねぇっつったら、ホントに一文も出さねぇんだから、この生爪親父《なまづめおやじ》はヨ!」 [#改ページ] [#挿絵(img/02_074.png)入る]   雀《すずめ》、かわら版屋になる  それから雀は、ポーとともに自分の書いたものをかわら版へと作り上げていった。  それは、大江戸城《おおえどじょう》から始まる、異界人《いかいじん》雀による大江戸|紹介《しょうかい》という体裁《ていさい》だった。 「うん。この世界へ落ちてきた経緯《いきさつ》とかはいいから、雀の自己紹介《じこしょうかい》のあとはすぐに大江戸城の紹介から始めちゃおう」 「うんうん」  大首《おおくび》のかわら版屋の奥座敷《おくざしき》で、雀とポーの頭を突《つ》き合《あ》わせての打ち合わせが続いた。 「で、このテーマパーク[#「テーマパーク」に傍点]ってのは、大|遊技《ゆうぎ》広場と書いて横に�てぇまぱぁく�って振《ふ》り仮名《がな》を振《ふ》って……」 「それでいいのか?」 「いい、いい。意味はちゃんとわからなくても、大江戸っ子には外来語ってことがわかればいいんだ。大江戸にも外来語は多いからね」 「そういやぁ、ポーもよく使ってるな」 「で、ここに結構《けっこう》大きめに絵を入れる。色も奮発《ふんぱつ》してカラフルにしよう」 「うんうん」 「雀は自分の感じた大江戸城の様子を白助《しろすけ》に言って描《か》いてもらって。それが実際《じっさい》の大江戸城と違《ちが》っててもいいから」 「わかった」  それから雀は、白助とも頭を突《つ》き合《あ》わせて挿絵《さしえ》の打ち合わせをした。  大首の親方は雀たちのやることに一切口を出すことなく、黙《だま》って見ていた。  こうして、雀《すずめ》の「大江戸紹介録《おおえどしょうかいろく》 大江戸城の巻《まき》」はできあがった。  白助《しろすけ》の挿絵《さしえ》が添《そ》えられると、それはそれはりっぱな読売《よみうり》となった。 「いい出来だ」  親方にそう言われて、雀は飛び上がった。 「ヤッタ———ッ!!」  ポーと白助と、三人は手を叩《たた》き合って喜んだ。 「刷《す》ってきな」 「ハイッ!!」  雀は、ポーに紹介《しょうかい》された刷《す》り師《し》の元へ、版下《はんした》を抱《かか》えて飛んで行った。軒下《のきした》に吊《つ》るされた『彫《ほ》り留《とめ》 刷《す》り末《すえ》』の看板がゆらゆらしている一軒屋の戸を、雀はぼそぼそと叩《たた》いた。 「え〜と、あの……すいません?」  返事がないので、戸をそっと開けて中へ入ってみた。 「う……!」  雀は息を呑《の》んだ。  薄暗い部屋の中は、紙や草紙《そうし》や彫り道具や筆《ふで》が散乱し、まるで空《あ》き巣《す》にあったようで、それ以上に雀を驚《おどろ》かせたのは、部屋の上半分を覆《おお》う白い幕。それは、どう見ても蜘蛛《くも》の糸だった。  大人の腕ほどもある蜘蛛の糸が天井にかけて縦横無尽《じゅうおうむじん》にはりめぐらされ、その中に不気味に蠢《うごめ》く黒い影があった。 「これは……ひょっとして蜘蛛の巣!?」  雀は、いや〜な予感がした。  蜘蛛の巣の中で蠢いていた影がピタリと動きをとめると、ぬうぅと姿を現した。  大きな赤い目玉が二つ、そのまわりを小さな目玉が六つ取巻き、ざんばらの長い髪に大きな顎《あご》、もちろん、剛毛《ごうもう》で毛むくじゃらの長い手は八本。まさに「化け物」と呼ぶにふさわしい、おぞましい姿だった。 「く、蜘蛛《くも》! でっけぇ蜘蛛だ……!!」  さまざまな異形《いぎょう》の者たちを見た雀《すずめ》も、背筋がゾッとした。思わず、版下を抱えたまま逃げ帰ろうかと思ったくらいだ。  しかし、雀を見た蜘蛛男は、あっけらかんとした声で言った。 「オ、客人だったか。すまんすまん、気づかなんで」  天井からするすると降りてきた蜘蛛男は、雀の前にとんと降り立った。見上げるような大きな身体《からだ》だった。蜘蛛男は、その大きな身体を折り曲げて雀に言った。 「散らかっててみっともねぇ。仕事が一段落したんで片付けをしとったのヨ」  見かけの恐ろしさと違《ちが》い、口調はおだやかで軽くて、印象はポーたちと変わらなかった。 「大首《おおくび》のところのおつかいかイ? え、お前《め》ぇの書いたかわら版か。コリャコリャ。初物《はつもの》たぁ、恵方果報《えほうかほう》。おぅい、末《すえ》! 仕事だぜ」  奥の間から、まるで同じような蜘蛛男がもう一|匹《ぴき》現れた。  彫り師の留吉《とめきち》と刷り師の末蔵《すえぞう》は、兄弟。腕のいい職人と評判である。大首のかわら版屋の刷り物は、すべてこの兄弟が手がけている。 「面白《おもしれ》ぇな、これ」  雀のかわら版を読んだ末蔵は、大きな顎でカクカクと笑った。 「ありがとう」  二人の前で胸を張った雀だが、内心は冷や汗をダラダラかいていた。  大江戸の住人たちは気のいい連中とはいっても、その「異形《いぎょう》ぶり」は、時としてやはり「人」と相容《あいい》れないものなのだと、痛感《つうかん》した。妖怪都市の「闇《やみ》」の部分が、チラリと見えた気がした。 「コレにも慣れなくちゃ……」  雀は、ドキドキとなかなかおさまらない胸を懸命《けんめい》にさすった。  そして…… 「旦那《だんな》あ——っ!!」  庵《いおり》の縁側《えんがわ》に座《すわ》っていた鬼火《おにび》の旦那の胸《むね》へ、雀《すずめ》は思い切り飛《と》び込《こ》んだ。 「見てくれよ、俺《おれ》の読売《よみうり》! 刷《す》りたてのホヤホヤだぜ!」 「できたかイ」 「真っ先に……真っ先に、あんたに見せなきゃって思って!」  旦那は、黙《だま》って頷《うなず》いた。 「親方が褒《ほ》めてくれたんだぜ、いい出来だって……」  雀は、そう言いながら自分が泣いていることに気がつかなかった。 「この大江戸城《おおえどじょう》! 白助《しろすけ》が描《か》いてくれたんだ。オモチャみてぇに可愛《かわい》いだろ。俺《おれ》にはこんな風に見えたんだ。白助は俺の思った通りに……描いてくれた……」 「ああ——……」  旦那は、言葉をつまらせた雀の頭を胸に抱《だ》きこんだ。 「ああ、いい出来だ、雀……」  天空の庭に黄金の光は溢《あふ》れ、花はあでやかに咲《さ》き、水は輝《かがや》いていた。  ありのままで美しく、空へ顔を向けまっすぐに立っている。  雀は、自分も今、少しそうなれたような気がした。 「さぁさぁさぁ、お立会い! これ、ここにいる人間。その名を雀《すずめ》と申します。このたび、めでたくこの大江戸《おおえど》の水を飲んだ次第《しだい》。以後、ごべっこんのほど、よろしくお願い申し上げます」  辻《つじ》に立ち、口上を述《の》べるポーと雀《すずめ》のまわりに、なんだなんだと物見高い大江戸っ子たちが集まってきた。 「さァて、この異界《いかい》からやって来た雀にとって、大江戸の町は見るもの聞くもの珍《めずら》しいものばかり。んんん? 猫《ねこ》も狸《たぬき》も立って歩いてしゃべっている? ハテ、面妖《めんよう》な!」  ドッと笑いがおきた。雀は頭を掻《か》いた。 「ただの人間の雀の目に、果たして大江戸はどう映《うつ》っているのか? 気にならないってンじゃあ、大江戸っ子じゃないよ! その雀の大江戸|紹介録《しょうかいろく》だ。さあ、買った買った!!」  ポーの口上に、ヤジ馬たちは飛びついた。 「くれ!」 「買った!」  飛ぶように売れるかわら版を、雀は呆然《ぼうぜん》と見ていた。だが、胸《むね》は喜びではちきれそうだった。かわら版を読んだ者たちが、感心したり笑ったりしている。足が震《ふる》えた。 「こいつァ面白《おもしれ》ぇな、雀!」  バン! と、雀は背中《せなか》を叩《たた》かれた。 「大江戸城をこんな風に見たこたぁ、ついぞなかったぜ」 「俺《おれ》ぁ、なんだかあらためて大江戸城を見たくなっちまったヨ」 「よっしゃ、今から見物に行こうぜ!」 「オー、行こう行こう!」 「こりゃァ、まだ続きがあンだろう、雀? 次も楽しみにしてるぜ!」  異形《いぎょう》の者たちが、笑いながら去って行った。雀はその者たちに、深々と頭を下げた。  雀の大江戸紹介録は、それからも「町の風景の巻《まき》」「うまい食い物の巻」と続き、雀はポーと白助《しろすけ》と頭を突《つ》き合《あ》わせ、来《く》る日も来る日も打ち合わせや版下《はんした》作りに取り組んだ。 「町の風景の巻《まき》」では、桜丸《さくらまる》と空を飛ぶ雀《すずめ》が挿絵《さしえ》に描《えが》かれ、大江戸《おおえど》の町を行き交《か》う異形《いぎょう》のものに驚《おどろ》く雀に、大江戸っ子たちは大笑いした。 「うまい食い物の巻《まき》」には| 狼 侍 《おおかみざむらい》の百雷《ひゃくらい》が登場し、菊屋《きくや》の菓子《かし》を白助が色とりどりに美味《うま》そうに描き、それで客が増《ふ》えたと、菊屋《きくや》から大首《おおくび》のかわら版屋へお礼の菓子が届《とど》けられた。 「道でよく声をかけられるようになったゼ」 と、百雷は笑った。  雀のかわら版が刷られるたびに、辻《つじ》に立つ雀とポーのもとには黒山の人だかりができた。かわら版は売れ続け、版《はん》を重ね続けた。 「もうスッカリ、かわら版屋の雀だの」  留吉《とめきち》にそう言われて、雀は照《て》れ臭《くさ》いやら困《こま》ったやら、大汗《おおあせ》をかいた。 「ま、まだとてもそんなんじゃ……。これは、大首《おおくび》の親方やポーや白助の好意でしてもらってるっていうか……」 「でも、お前《め》ぇ。お前ぇのかわら版はいい出来だぜ。充分《じゅうぶん》これでやっていけらぁ」  末蔵《すえぞう》の言葉は、心の底から嬉《うれ》しかった。  一流の職人《しょくにん》である二人が雀を認《みと》めたのだ。 「ありがと、留さん、末さん……」  雀は、心から礼《れい》を言った。  まだ二人の姿《すがた》が恐《こわ》いということは内緒《ないしょ》だが。  大江戸の町を歩く雀に、声をかけてくる者が多くなった。 「よぅ、雀!」 「かわら版読んだぜ。面白《おもしろ》かった」 「毎度ご贔屓《ひいき》に!」  そう返す言葉にもようやく慣《な》れた雀は、なんだかとても清清《すがすが》しい気持ちで、空を見上げた。  大江戸《おおえど》の空には、今日もさまざまなモノが気持ち良さそうに飛んでいた。  大首《おおくび》の親方の手下が、雀《すずめ》の前に三方《さんぼう》を運んできた。  そこには、小判《こばん》が二|枚並《まいなら》んでいた。 「お前《め》ぇが稼《かせ》いだ金だ、雀。初仕事の色も、ちィと付けてある」  鼻息も荒《あら》く、親方が言った。  ポーは、 (どのへんがどう色を付けたのかわからないけど、親方にしちゃあ、出した方かな) と、思っていた。  雀は、金色の小判を手に取った。それは本当に、ずっしりと重かった。  初めて、まっとうに働いて稼《かせ》いだ金。しかも、皆《みな》に喜んでもらえた。誰《だれ》に対しても、胸《むね》を張《は》れる仕事ができた。たくさんの人に助けてもらった。  感謝《かんしゃ》は言葉にならず、雀は深く下げた頭を上げられなかった。  そんな雀に、親方は言った。 「雀よ。お前《め》ぇの大江戸|紹介録《しょうかいろく》はまだ続くだろうが、それたァ別に、お前ぇがこれから見聞きするもンも、お前ぇの言葉で書いていってみねぇか」  雀は、ハッと顔を上げた。 「親方、それって……」 と、ポーが言った。親方は頷《うなず》いた。 「まだまだ文に未熟《みじゅく》なとこァあるが、そこらへんはポーが教えるだろう。それよりも、お前ぇの目と鼻は、なかなかいい。かわら版屋としてやってみる気があンなら、この大首が引き受けるぜ」 「親方……!」  雀《すずめ》が、待ち望んだ瞬間《しゅんかん》。  自分の居《い》る場所を見出した瞬間だった。  ポーと白助《しろすけ》から差し出された手を、雀は力いっぱい握《にぎ》った。  大首《おおくび》のかわら版屋からさほど遠くない路地裏《ろじうら》の、貧乏《びんぼう》長屋の一番|端《はし》。四|畳《じょう》半一間に縁側《えんがわ》と小さな庭付き、壁薄《かべうす》し。雀は、ここに居《きょ》を構《かま》えた。  小さな飯炊《めした》き釜《がま》と鍋《なべ》一|個《こ》、茶瓶《ちゃびん》が一個、水瓶《みずがめ》が一個、布団《ふとん》一式を自分で買った。茶碗《ちゃわん》は桜丸《さくらまる》から、湯呑《ゆの》みはポーから、そして旦那《だんな》からは箸《はし》をもらった。白助が、床《とこ》の間《ま》に飾《かざ》る絵を描《か》いてくれた。 「こんなしみったれた長屋へ、よく来ておくれだねぇ、雀ちゃん」 「困《こま》ったことがあったら何でもお言いな」  蛇面《へびづら》や蝦蟇面《がまづら》のおかみたちが、野菜の煮《に》たのだの魚の焼いたのだのを持ってきてくれた。飯の炊《た》き方、味噌汁《みそしる》の作り方、生活の一からを教えてくれた。  雀は、皆《みな》の子どもになった。  大勢《おおぜい》の兄弟姉妹《きょうだいしまい》もできた。  引《ひ》っ越《こ》したその日から(すでに部屋《へや》に居着《いつ》いていたので)「飼《か》い猫《ねこ》」もできた。  こうして、大首のかわら版屋の雀は歩き出した。 「白助って、本当の名前じゃないんだな」  大首のかわら版屋の奥座敷《おくざしき》の自分の机《つくえ》の前に座《すわ》り、雀は白助が絵を描くのを眺《なが》めていたが、その真っ白けのノッペラボーを見ていると、ついムズムズした。 「目も鼻も口もなくて寂《さび》しくねぇか? ってか、俺《おれ》が寂しいよ。せめてこぅ……目と口ぐらいは……」 と、おもむろに筆を取り、その真っ白な部分に目と口を描《か》いた。 「キュッキュッキュー、オ・バ・ケ〜のキュ〜〜〜」 「何してんだい、雀《すずめ》?」  ただのラクガキの目と口でも、それができたら顔らしくなった白助を見て、雀とポーは大笑いした。 「アハハハハ!」 「これで話し掛《か》けやすくなったよ!」  すると、墨《すみ》で描いただけのその口から、突然《とつぜん》細長い紙のようなものがスルスルと垂《た》れ始めた。 「何?」 『あ、しゃべレル』  紙には、そう書かれてあった。 「ええっ!? これって、君がしゃべっているのかい、白助《しろすけ》!?」 「すげー! ラクガキしただけなのに? さすが大江戸《おおえど》だあ!」  雀《すずめ》は素直《すなお》に感心したが、この珍事《ちんじ》には、さすがの大江戸の住人ポーも目玉を丸くした。 「こんなのはボクも聞いたことがないよ!」 「親方! 白助がしゃべれるようになったよ。すげーよ!」  ラクガキされた口から、さらにするすると紙が出てきた。 『白助って名前はキライ。他《ほか》のに替《か》えテ』 「へぇ、そりゃ悪かったね!? ってゆーか、君、本名ないの?」 「キュータローはどうだ? オ・バ・ケ〜のキュータロー! そういう漫画《まんが》のキャラがいてさ。……そのまンますぎるかな? キュ……キュータは?」 『キュー太……。キュー太、いいネ』  白助《しろすけ》改めキュー太は、親方の前へ行くとお辞儀《じぎ》をした。 『名前をキュー太にしましタ』  長く垂《た》れてきたセリフの紙を、親方の手下どもがハサミで切り取った。それはそのままゴミになった。 「ほぉ……、お前《め》ぇ、しゃべられたのか。面白《おもしれ》ぇことが起きるもんだ」  大首《おおくび》の親方も驚《おどろ》く出来事《できごと》を、雀《すずめ》もポーも愉快《ゆかい》そうに見ていた……が。 『ところデ、前々から思っテいたンですけどネ、親方。労働条件《ろうどうじょうけん》の改善《かいぜん》ヲ求めタイと思うンですヨ。だいたい親方はボクらをコキ使うクセに、それに見合うお給金を払《はら》っテくれてないンじゃありませン?』  キュー太の口からは、文句《もんく》を綴《つづ》った紙が後から後からベロベロと溢《あふ》れた。手下どもがそれを親方に見せながら切りながら、切りながら見せながらと舞《ま》い舞いした。  雀とポーは、唖然《あぜん》とした。 「白……キュー太って……文句言いだったんだね」  親方の大きなデコに、ピキッと青筋《あおすじ》が浮《う》かぶ。 「誰《だれ》だ、余計《よけい》なことをしやがったのは———っっ!!」 と、割《わ》れ鐘《がね》が鳴り終わらぬうちに、雀は部屋《へや》を飛び出した。 「取材に行っちきま———す!!」  面白《おもしろ》話を求めて西東。  かわら版屋の雀が走り始めた大江戸《おおえど》の町は、今日《きょう》もすべっと良《え》え天気だった。 [#改ページ] [#挿絵(img/02_094.png)入る]   芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋《らんしゅう》  夏の終わりに大江戸水天宮《おおえどすいてんぐう》の、水天の息子《むすこ》の嫁取《よめと》りが行われた。 「イヤ〜、すごかったなァ」  神の嫁入《よめい》りを見た雀《すずめ》は、まだ夢心地《ゆめごこち》だった。  大江戸の水天宮へ輿入《こしい》れしたのは、東北にある大きな湖を治める水神の娘《むすめ》ということであった。  大江戸っ子たちが、ヤンヤヤンヤと見物する中、五色の旗を掲《かか》げた千人もの旗手が二列に並《なら》び、ゆっくり行進してきた。  旗手の先頭が水天宮内へ入ると行進は止まった。すると、その列の間に水が湧《わ》き、たちまち豊《ゆた》かな水のたゆたう川となった。 「おおお〜〜〜!!」  見物人から大歓声《だいかんせい》が上がった。  川面《かわも》には金粉銀粉が浮《う》かび実に華《はな》やかに煌《きらめ》き、両側に並《なら》んだ五色の旗を映《うつ》して、目出度《めでた》い眺《なが》めなことこの上なかった。  ドォンドォンと太鼓《たいこ》の音が上空から轟《とどろ》いた。何百もの白鳥が東北の方角から飛来し、空を埋《う》め尽《つ》くした。白鳥たちは口にくわえた色とりどりの花びらを落とし、あたりは花吹雪《はなふぶき》となった。 「オオ、なんと……!」 「イヤ、なんとも華《はな》やかじゃねぇか!」  太鼓《たいこ》がさらに轟《とどろ》く中、川の水が轟音《ごうおん》をたてて盛《も》り上《あ》がり、見上げるような生き物が現《あらわ》れた。 「象《ぞう》だ!」  大歓声《だいかんせい》が起きた。 「象!?」  雀《すずめ》は、呆然《ぼうぜん》とした。  空色の身体に金の飾《かざ》りも豪奢《ごうしゃ》な、それは確《たし》かに姿《すがた》は雀もよく知っている象のようだったが、まず大きさが違《ちが》う。 「二階建ての屋根よりでけぇ———っ!!」  いくらのけぞっても、象の上の輿《こし》に乗っているであろう花嫁《はなよめ》の姿が拝《おが》めない。この巨大《きょだい》な象の足はとてつもなく長く、そしてガラス細工のようにピンと先細り、まるで竹馬に乗っているようだった。 「水神の象だ。コリャ珍《めずら》しいものを見られたなあ!」  桜丸《さくらまる》が雀の肩《かた》を叩《たた》いた。 「水神の象……!」  空には何百という白鳥、花吹雪《はなふぶき》と旗の満艦飾《まんかんしょく》の中を、ガラスの足をした象は川面《かわも》をすべるように歩いた。  花嫁が、チラリと見えた。薄紫《うすむらさき》の薄布《うすぬの》を何重にもなびかせた水神の姫君《ひめぎみ》は、黒い髪《かみ》をしていた。長い煙管《きせる》で実に優雅《ゆうが》に煙《けむり》を吐《は》いていた。 「ありゃア、着物じゃねえ。ヒレ[#「ヒレ」に傍点]だよ」  桜丸が笑った。  雀が「ヴェール」だと思っていたのは、花嫁の身体《からだ》から生えたヒレだった。 「人魚姫《にんぎょひめ》だ……!」  雀は感動した。  水神の象のあとに続き、宝《たから》箱を山のように背負《せお》った巨大《きょだい》な鯉《こい》が、何|匹《びき》も川から現《あらわ》れた。 「すげえお宝だ!」 「さすが豪儀《ごうぎ》だねぇ!」  川の両側で見守る大江戸《おおえど》っ子《こ》たちの拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》を浴びながら、花嫁《はなよめ》行列は水天宮《すいてんぐう》へと入っていった。迎《むか》える水天宮では、横一列に並《なら》んだ神官たちが水鼓《すいこ》を打ち鳴らして花嫁を歓迎《かんげい》した。水鼓は、透《す》きとおった爽《さわ》やかな音がした。水の流れる音に似《に》ていた。  花嫁を出迎《でむか》えた花婿《はなむこ》は、顔を白い布《ぬの》で隠《かく》していた。その布には、記号のような模様《もよう》が描《えが》かれていた。 「たまにいるよな。顔を布で隠している奴」 「面」を入れると、顔を隠している者は大江戸に多い。 「顔を隠す意味はいろいろだなぁ。一番の意味は、正体を知られねぇようにってことだな」 「正体って……水天の息子《むすこ》なんかは、もう正体がわかってんのに?」 「そういう正体もだが、力量が知れるのを隠すのサ」 「力量……」 「あるいは、力量がもれる[#「もれる」に傍点]のを防《ふせ》ぐとかな」 「ふぅん!?」 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》も黒|眼鏡《めがね》かけてるだろ」  花嫁を迎《むか》え入《い》れた水天宮には、千本の旗が翻《ひるがえ》り、空から降《ふ》りそそいだ花びらで境内《けいだい》が埋《う》め尽《つ》くされた。  目出度《めでた》いものを見て目出度い気分に浸《ひた》り、景気のいいことが何より好きな大江戸っ子たちは、あちらの飲み屋こちらの茶屋で祝杯《しゅくはい》をあげ、大江戸中が目出度い雰囲気《ふんいき》に包まれた。  この婚礼《こんれい》の様子を、大首《おおくび》のかわら版屋では絵巻物《えまきもの》にして売ることにしたので、婚礼の終わったその瞬間《しゅんかん》から、絵師《えし》のキュー太は不眠不休《ふみんふきゅう》で絵筆をふるった。もっとも、キュー太は「眠《ねむ》る」モノなのかは未《いま》だ不明であるが。  満艦飾《まんかんしょく》の目出度い様子を出すためには、細かい描写《びょうしゃ》と彩色《さいしょく》の豊かさが重要だったが、キュー太は見事にそれをやってのけた。細長い紙面に描《えが》かれた、花嫁行列の旗手の行進から始まる嫁入《よめい》りの様子は、まさに「再現《さいげん》」と呼《よ》ぶにふさわしい臨場《りんじょう》感に溢《あふ》れていた。 「うわー! なんかドラマ見てるみたいだぜ、キュー太! すげーよ!」 「これだけのものを、よく五日で描《か》いたものだねェ」  雀《すずめ》もポーも感心した。  絵の出来を確認《かくにん》してから、大首《おおくび》の親方はキュー太に言った。 「いい出来だ。アレも出来てるだろうな、キュー太? 確か今日《きょう》が納品《のうひん》だろう!?」  キュー太は頷《うなず》いた。 「ほかにも仕事してたのか? いつ休むんだよ」 「あんまりコキ使ってると壊《こわ》れるヨ、親方」  親方はケッと言って、そのどでかい顔を歪《ゆが》めた。 「そン代わり、特別手当を寄越《よこ》せとぬかしゃあがった。全く欲《よく》どしいこったゼ!」  対するキュー太も、負けじとセリフを吐《は》く。べろべろと。 『お互《たが》いサンマの一夜|干《ぼ》し。干したフンドシ七|尺《しゃく》半。生爪《なまづめ》親父に締《し》めまショ、締めまショ』 「しゃらくせえ! そのベロベロ燃《も》やしっちめえ!!」  二人のやり取りに、雀《すずめ》とポーはため息した。 「どっちもどっちだな」 「呆《あき》れが宙返《ちゅうがえ》りだネ」  キュー太が絵巻物《えまきもの》の他《ほか》に描いていたのは、姿絵《すがたえ》だった。  縹色《はなだいろ》の地に、胸《むね》に一|匹《ぴき》の蝶《ちょう》の模様《もよう》の着物がなんとも粋《いき》な、凄味《すごみ》のある色気の佳人《かじん》。真っ白の尻尾《しっぽ》付き。 「うわあっ、すげえ美人!!」 「蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》じゃないか。これまた、よく描《か》けてるねえ! いつの間にこんな仕事してたんだイ!?」 「贔屓筋《ひいきすじ》がキュー太を指名してきたのヨ。深川の竹の春に呼《よ》ばれてな」 「竹の春といやぁ、深川でも一等上等な船茶屋《ふなぢゃや》じゃないか。さすが当代一の役者は違《ちが》うねぇ」 「これ、役者なのか」 「知らないのかい、雀《すずめ》? ヤボだねぇ」 「俺《おれ》、芝居《しばい》ってあンまり……。カラクリ芝居とかは面白《おもしろ》いと思うけど」  雀は頭を掻《か》いた。 「日吉座《ひよしざ》の一|枚看板《まいかんばん》の蘭秋《らんしゅう》といえば、今|大江戸《おおえど》で一番売れっ子なんだヨ。大江戸流行通信読んでないの?」 「大江戸流行通信は、ライバル会社の読売じゃねぇか、ポー」 「ライバルなんかじゃないよ。うちみたいな小《ち》っさなかわら版屋じゃ、逆立《さかだ》ちしたってかなやしないんだから」  親方が、ギロリと目を剥《む》いた。 「下《くだ》ンねーこと言ってねーで仕事しやがれ、穀潰《ごくつぶ》しども!! キュー太はとっとと品モン届《とど》けてこい!!」  雷《かみなり》のような大声に、全員|奥座敷《おくざしき》を叩《たた》き出《だ》された。 「丁度《ちょうど》いい。三人で絵を届《とど》けに行こうじゃないか。茶菓子《ちゃがし》ぐらい出るだろうサ」 「あ、いいね。ソレ」 「絵はどこに届ければいいんだい、キュー太? 竹の春へ!? そりゃアいいや。茶菓子どころか、酒が出るかも知れないねえ」  ポーは、嬉《うれ》しそうに尻尾《しっぽ》をピンと立てた。 「俺《おれ》ぁ、茶菓子の方がいいなぁ」 と、雀は言ったが、キュー太は、 『どっちもいらない』 という紙をヒラヒラさせた。雀は、キュー太のつるんとした頭を撫《な》でながら訊《たず》ねた。 「何も食わねぇでどうやって生きてんだ、キュー太?」 「食べ物[#「食べ物」に傍点]を食べないモノは多いよ、雀」 「食い物食わないでさぁー、金を何に使うワケ?」  キュー太の生態《せいたい》は謎《なぞ》が多い。  雀《すずめ》、ポー、キュー太の三人が深川の船茶屋竹の春に着くと、先方、蘭秋《らんしゅう》の贔屓筋《ひいきすじ》はすでに来ていて呑《の》んでいた。 「おお、よく来たよく来た、大首《おおくび》の」  三人を迎《むか》えたのは、一ツ目の鬼《おに》だった。ポーが雀に耳打ちした。 「油問屋の大河《おおかわ》屋だ。コリャ大きなパトロンだねぇ」  大河屋は、顔こそ鬼だが気前のいい旦那《だんな》で、三人にも酒と肴《さかな》をふるまってくれた。 「おお、なんと! こりゃあ、いい出来だ。さすがだねぇ、キュー太」  大河屋は、絵を見て大喜びした。 「実は今、蘭秋《らんしゅう》も来てるンだよ」 「えっ、ホントに!」  ポーの尻尾《しっぽ》がピンと立った。 「せっかくだから、そっちの二人も実物を拝《おが》んでおゆき」  大河屋は、庭に面した障子《しょうじ》を開けた。  船茶屋《ふなぢゃや》竹の春、自慢《じまん》の庭。薄緑《うすみどり》の竹が立《た》ち並《なら》ぶ間を、表の船付き場と繋《つな》がる水路がくねくねと蛇行《だこう》し、そこにはいくつもの小さな朱《しゅ》の太鼓橋《たいこばし》が架《か》けられていた。背《せ》の高い竹は庭の上空を笹《ささ》の屋根で覆《おお》い、木漏《こも》れ日《び》が庭全体に美しい影《かげ》を落としている。庭には小ぶりの東屋《あずまや》が点々と置かれていて、密《ひそ》やかな話を交《か》わすために使われていた。 「上品で綺麗《きれい》な庭だなあ」  雀《すずめ》は感心した。 「夜になると、あの竹が光るんだよ。そりゃあ、幻想的《げんそうてき》でねえ」 「へえー!」  大河屋は呵呵《かか》笑いした。 「地面にも夜光石を敷《し》き詰《つ》めているからねぇ。足元に星空があるようだよ。まァ、ここの主《あるじ》が化け蛍《ほたる》だからね。夜光るのはお手のものサ」 「アハハハ」  庭に出て小さな太鼓橋《たいこばし》を渡《わた》り、東屋《あずまや》の一つに近づいた。 「蘭秋《らんしゅう》や、おまィの絵が出来上《できあ》がってきたよ」  東屋から出てきた者に、雀《すずめ》は息を呑《の》んだ。  真っ白い細面《ほそおもて》に、闇《やみ》のように黒く、切れるような目。その目元と、薄《うす》い唇《くちびる》に引いた赤い紅《べに》があまりにも鮮《あざ》やかで、目が釘付《くぎづ》けになった。  背《せ》の高い細身の身体に、濃《こ》い紫《むらさき》一色の振袖《ふりそで》と、金の刺繍《ししゅう》の花柄《はながら》の細帯がなんとも粋《いき》で似合《にあ》っていて、長い黒髪《くろかみ》は結《ゆ》わずに後ろで束《たば》ね、垂《た》らしている。  月下楼《げっかろう》の菊月太夫《きくづきたゆう》も美しかったが、蘭秋《らんしゅう》はまた別の意味で美しいと、雀は腹《はら》の底から感じた。 「なんかすげェ……強そう!」 と、雀は思った。 「菊月太夫《きくづきたゆう》は、透《す》き通《とお》ったガラスみたいな綺麗《きれい》さだったけど、この人はなんか……こっちに迫《せま》ってくるみたいな……」  まだまだガキの雀《すずめ》でさえ、身体《からだ》の奥《おく》がザワリとするような。雀は、これが「色気」というものなのかと、初めて色気の意味がわかったような気がした。 「蘭秋にござんす」  蘭秋は、皆《みな》に頭を下げた。その声もまた、深い色を帯びた響《ひび》きだった。 「いやあ〜、さすがに姿《すがた》といわず声といわず、艶《つや》があるねェー」  ポーは、目を丸くして頭を振《ふ》った。蘭秋は艶然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。 「どうだい? 立てば芍薬《しゃくやく》、座《すわ》れば牡丹《ぼたん》、歩く姿《すがた》は百合《ゆり》の花ってぇ美人は、まさにこういうのを言うんだと、その見本のようだろう!?」  大河《おおかわ》屋は誇《ほこ》らしげに笑った。 「お?」 「あ!」  次に東屋《あずまや》から顔を出した者を見て、雀《すずめ》とポーは同時に叫《さけ》んだ。 「八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》!」 「どっかで聞いたような声だと思ったゼ」  八丁堀の同心《どうしん》の百雷《ひゃくらい》が、東屋からぬぅっと出てきた。 「でんつくの旦那が、なんでこんなとこにいるんだい!?」 「でんつくは余計《よけい》だ。仕事だよ、仕事!」 「仕事?」  蘭秋が、百雷にそっと寄《よ》り添《そ》った。 「旦那は、アタシの相談に乗って下《くだ》すってるンでござんすよ。お頼《たよ》り申しておりやす、百雷さま」  美形にしなだれかかられて、百雷はまんざらでもない様子で頭を掻《か》いた。 「百雷の旦那がモテてる……」 「こりゃあ、嵐《あらし》が来るネ」  座敷《ざしき》に戻《もど》った雀たちは、蘭秋の話を聞いた。 「えっ、太夫《たゆう》は伏見《ふしみ》一族なのかいっ!?」  ポーは、酒を吹《ふ》きだすほど驚《おどろ》いた。 「伏見《ふしみ》って……京都の?」  そう問う雀に、ポーは大きく頷《うなず》いた。 「京の伏見一族といえば、妖狐《ようこ》の中でも一等|由緒《ゆいしょ》正しき大妖怪《だいようかい》さ。代々|大浪花《おおなにわ》の要職《ようしょく》を務《つと》めていて、その権力《けんりょく》は大浪花の殿《との》サマに匹敵《ひってき》すると言われてるンだよ」 「へえー! 大阪にも殿サマがいるんだ」 「伏見一族はすべて白狐《びゃっこ》で、そりゃア美しいと聞くよ。なるほどその化け姿《すがた》なら、こうも艶《あで》やかなのが納得《なっとく》いくよネー」 「あ、それでこの尻尾《しっぽ》かあ!」  雀は、姿絵《すがたえ》に描《えが》かれた純白《じゅんぱく》の尻尾《しっぽ》の意味がわかった。今は着物の中に隠《かく》れてはいるが。 「人型に化けたのに、尻尾《しっぽ》はそのままなのかイ?」  雀《すずめ》が蘭秋《らんしゅう》に訊《たず》ねると、蘭秋は軽く笑った。 「実はアタシは、伏見《ふしみ》の落《お》ち零《こぼ》れでござんす」 「落ち零れ?」 「いくら由緒《ゆいしょ》正しき大妖怪《だいようかい》の一族といえど、すべての者が強い妖力《ようりょく》を持って生まれてくるわけじゃござんせん。アタシにゃ十六人の兄弟姉妹《きょうだいしまい》がおりやすが、アタシだけが妖力が無くてねぇ」  苦笑いするその表情《ひょうじょう》も美しかった。 「それでも、唯一《ゆいいつ》できる変化《へんげ》の術《じゅつ》を一生|懸命研《けんめいみが》きやしたよ。少しでも伏見の名に恥《は》じぬようにとネ……。ところが、今度は変化の術が解《と》けなくなっちまってねぇ」 「それが、今の姿《すがた》?」 「この姿すら、尻尾《しっぽ》の残った不完全なものでござんす。おまけに元の姿に戻《もど》れないとなっちゃあ、もう一族にゃあ居《い》られんせん。泣く泣く京を出やした」  ウンウンと頷《うなず》きながら、鬼面《おにづら》の大河《おおかわ》屋が泣きそうになっている。 「それから流れ流れて大江戸《おおえど》まで来て、そこで絵が付いたことにゃあ、日吉座《ひよしざ》サンと知り合えてねぇ。お前《め》ェ、うちで役者をやってみねぇかイ? と、こうなったわけでござんす」  蘭秋は、酌《しゃく》をしながら百雷《ひゃくらい》に微笑《ほほえ》んだ。 「アタシにゃあ、大江戸の水が合ったのか皆《みな》さんに可愛《かわい》がってもらって、ほンに有難山《ありがたやま》の椎《しい》の木山椒《きさんしょう》でござんすよ」  そっと肩《かた》を寄《よ》せる蘭秋の背中《せなか》をポンポンと叩《たた》いて、百雷は言った。 「今当世の花形役者も苦労したものだの。だがまぁ、お前《め》ぇはこれからのモンだから、めげずに精進《しょうじん》しねえ」  その様子を見て、ポーは肩《かた》をすくめた。 「そう言やあ、太夫《たゆう》の相談に乗ってるって、旦那《だんな》?」  蘭秋が、身体《からだ》をより百雷に寄《よ》せて言った。 「先々月だったか、劇場《こや》の前で半可通《はんかつう》が暴《あば》れやしてねぇ。それをたまたま通りかかった百雷《ひゃくらい》さまが、アッという間に取り押《お》さえなすって。惚《ほ》れ惚《ぼ》れいたしやしたよ」 「いやぁ、はっはっは。それが仕事だもんでの」 「それでネ、この頃一座《ごろいちざ》の中で妙《みょう》なことがポチポチと起きてるんでござんす。アタシの櫛《くし》が無くなったり、鏡が壊《こわ》されていたこともござんした」 「ほォほォ!」  何やら事件《じけん》の臭《にお》いに、雀《すずめ》は身を乗り出した。 「誰《だれ》かがイヤガラセをしてるンだよ。人気者にはよくあることサ」 と、大河《おおかわ》屋が言った。 「ええ、そんなとこでござんしょうが、とりあえず百雷さまにはお知らせしとこうと思いやしてね」  蘭秋は、百雷の膝《ひざ》の上で「の」の字を書いた。 「大したことじゃねぇとは思うが、見回りの途中《とちゅう》で劇場《こや》に顔を出すぐれぇはしとこうと思ってな。イタズラもんにゃあ、それで充分効《じゅうぶんき》くだろうサ」 「嬉《うれ》しゅうござんす」  百雷に向けられる蘭秋の流し目は、ゾクゾクするほど色気があった。  百雷は、まるで気づいていないようだが。 「まったく、こと色恋《いろこい》に関しちゃあ、ホント百が抜《ぬ》けてるヨ、八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》は!」  かわら版屋へ引き上げながら、ポーは大きくため息をついた。 「太夫《たゆう》って、旦那のことが好きみたいだな」 と、雀《すずめ》が言うのを聞いて、ポーはさらに大きなため息をついた。 「こんな子どもにだってわかるのに、あのでんつくってば! まあ、あの二人の様子をニコニコ見てた大河屋も、鈍《にぶ》いというか寛大《かんだい》というか、お人好しだけどもサ」 「大河屋は、蘭秋の芸に金を出してるンだろ!?」 「そりゃあ、純粋にそういう意味のパトロンもいるけどネ」 「だったらいいよな。蘭秋《らんしゅう》が旦那《だんな》を好きでもサ。俺《おれ》は、あの二人はお似合《にあ》いだと思うけど、種の壁《かべ》とかあるわけ、やっぱ?」  初秋の大江戸《おおえど》の町。爽《さわ》やかな風に吹《ふ》かれながら睦《むつ》まじく歩く恋仲《こいなか》らしき二人|連《づ》れは、しかし、見た目では何と何の組み合わせなのか、雀《すずめ》にはわからなかった。 「ん〜、同じ種だったり、なかったり……」  茶屋で汁粉《しるこ》を飲みながら、ポーの話を聞いた。 「血を大切にする者は、やっぱり同種で連《つ》れ添《そ》うね。力の強い者の中には血筋《ちすじ》よりも力筋《ちからすじ》を優先《ゆうせん》させる者がいるから、そういう場合は種は関係なかったりするケド」 「力筋……」 「力の強い者になると、相手に力を注ぐだけで子作りができちゃうことがあるのサ。つまり、一緒《いっしょ》にお布団《ふとん》に入らなくても子どもを作れるンだ。この意味わかる?」  目玉をまん丸にしてポーが問うてきたので、 「そこまで砕《くだ》いて言わなくてもわかるよっ」 と、雀《すずめ》は顔を赤らめながら返した。 「この方法だと、雀だって子どもを産めちゃうことになるのサ」 「ああ、だから……!」  お小枝《さえ》を連れていた時、「お前《め》ぇが産んだのか」と言われた意味が、ようやくわかった雀だった。 「まぁ、分裂《ぶんれつ》して増《ふ》えていく者もいるけど、番《つが》わなくちゃ子作りができない者は同種っていうのが多いね。子どもができやすいのは、やっぱり同種だから。でも、異種《いしゅ》同士でも子どもはできることもあるし、種を越《こ》えるタブーっていうのは、大江戸《おおえど》にはあンまりないネ」 「そうなんだ?」  雀は、自分の周りに多い者たち、「たいていの町人」つまり「力を持たない者」に、同種の夫婦《ふうふ》が多いのはこういうことなのかと納得《なっとく》した。 「じゃあさ、身分のタブーは? もとは伏見《ふしみ》一族だけど、蘭秋《らんしゅう》は今は町人だろ? 百雷《ひゃくらい》の旦那《だんな》とは身分の差があるじゃん」 「身分の差もね〜、よほどエライ人にならなきゃ、タブーっていうほどのタブーには思われないみたいだよ」 「そうなんだ〜。あ、おネーサン、汁粉《しるこ》、もう一杯《いっぱい》ネ!」  店の奥《おく》から首を伸《の》ばしていた茶屋|娘《むすめ》が、頷《うなず》いてその首をひっこめた。  ポーがパイプに火を入れた。紫煙《しえん》が秋の空へとたなびいてゆく。キュー太は、キラキラ光る陽射《ひざ》しを浴《あ》びて、気持ち良さそうにじっとしている。 「さっきの話と同じで、力の強い者は力を重視《じゅうし》するから、力さえ強けりゃ身分に関係なく嫁取《よめと》りや婿取《むこと》りをしてもいいんだけど、身分が高いということは力も強いということだから、結果的に身分の高い者同士が結びつくってことになるわけサ。水天の嫁取《よめと》りみたいにネ」 「なるほど」 「けど、身分が高い者は高いなりの苦労があるもんサ。蘭秋の話を聞いたろう? 優秀《ゆうしゅう》な一族に生まれたからこそ、力のない者は一族から出なきゃならない。何の力もない町人の方が、よほど気楽だよ」  ポーは、煙《けむり》を吐《は》いて笑った。 「言えてる」  雀《すずめ》も笑った。  当初、妖力《ようりょく》も霊力《れいりょく》も持たないただの人間の自分が、妖怪《ようかい》たちに混《ま》じってやっていけるのかと、少々不安に思っていた雀だったが、何の力もない者は存外《ぞんがい》多かった。化け狸《たぬき》というけれど、ただ二本足で立って歩いてしゃべるだけ。変化《へんげ》もできなければ妖術《ようじゅつ》も使えない。町人の大半は「異形《いぎょう》なだけ」だったのだ。  ポーだとて同じだった。もっともポーは猫《ねこ》だから、夜目が利《き》いたり身軽だったりと、そいう力はあるけれど。  そして、こういう無力な者たちを、百雷《ひゃくらい》など「力のある者」が守ってくれるので、雀たちは安心してその日暮《ひぐ》らしの毎日を、のんびり楽しく送ることができるのだった。  特別な力もない代わり、それで悩《なや》むこともない。  身分の壁《かべ》も種の壁も割《わ》りと曖昧《あいまい》。  ちょイと稼《かせ》いで、ぱあっと遊ぶ。 「ここァ、俺《おれ》の世界よりも、よっぽど出来がいいや」  雀《すずめ》は、なんだか愉快《ゆかい》になった。 と同時に、自分もいつか「何か」と夫婦《ふうふ》になって子どもを作れるのかなと、そんなことを頭の隅《すみ》っこで微《かす》かに思ったりした。 [#改ページ] [#挿絵(img/02_119.png)入る]   雀《すずめ》、芝居《しばい》を見物す  雀たちは、この機会に芝居《しばい》を見に行くことにした。  大河《おおかわ》屋に頼《たの》むと、気前よく日吉座《ひよしざ》の桟敷席《さじきせき》を手配してくれた。  芝居見物は朝から夜までかかる長丁場《ながちょうば》。弁当《べんとう》を注文し、「取材」ということにして体《てい》よく仕事をサボり、桜丸《さくらまる》も誘《さそ》って意気揚揚《いきようよう》とかわら版屋を出る。  青空には、鰯雲《いわしぐも》がひしめきあっていた。 「ようよう秋らしくなってきやがった」  秋空を見上げて桜丸《さくらまる》が言った。雀《すずめ》はその秋空に向って吠《ほ》えた。 「仕事をサボれてサイコ———!!」 「そうそう。仕事をサボれて嬉《うれ》しいと思えるようになったンなら、やっと一人前《いちにんまえ》だよ、雀」  ポーが、ウンウンと頷《うなず》いた。  芝居《しばい》好きの大江戸《おおえど》っ子《こ》のため、大小さまざまな芝居一|座《ざ》はあまたあれど、中でも芝居小屋[#「小屋」に傍点]ならぬりっぱな劇場《げきじょう》を構《かま》え、上演《じょうえん》中は連日大入り満員となる人気|座《ざ》が、大江戸三大|座《ざ》と呼《よ》ばれる、王春《おうしゅん》、焔《ほむら》、日吉《ひよし》の三座である。  王春座は、和事《わごと》の王春と呼《よ》ばれ、美女たちの華《はな》やかな舞踊《ぶよう》と、美男美女による美しく哀《かな》しい恋物語《こいものがたり》が売り。 「もゥ、王春は圧倒《あっとう》的に若《わか》い女たちに人気があって、客のほとんどが女でねぇ。男が見るとお尻《しり》がこそばゆくなるような甘《あま》い恋《こい》話を、恥《は》ずかしげもなくやるわけサ」  芝居は、深川《ふかがわ》あたりのカラクリ芝居か、いいとこエレキテルの幻燈《げんとう》芝居しか知らない雀《すずめ》は、ポーの講義《こうぎ》を受けた。 「ここの男優《だんゆう》ときたらまァ、イヤミ金山な美男|揃《ぞろ》いで。芝居は大したことなくても顔だけで人気がとれるわけだから、文字通《もじどお》り高い面《つら》をしてるのが多くてねぇ。吉原《よしわら》とかでちょくちょく騒《さわ》ぎを起こしてるヨ」 「どの世界でも、そういう奴《やつ》って同じなんだな〜」  雀は、しみじみしてしまった。  和事の王春《おうしゅん》に対するのが荒事《あらごと》の焔と呼《よ》ばれる焔座で、豪快《ごうかい》な太鼓《たいこ》と男舞い、芝居は豪傑《ごうけつ》による邪神《じゃしん》や怪物退治《かいぶつたいじ》が多く、舞台《ぶたい》せましと繰《く》り広《ひろ》げられる大立ち回りが、血の気の多い大江戸っ子たちに大人気であった。 「血湧《ちわ》き肉躍《にくおど》るって気分になりてぇなら、焔の芝居だな」 と、桜丸《さくらまる》は言う。 「客席に花びらやシャボンを散らせるのが王春《おうしゅん》なら、焔は客に向って火を吹《ふ》くは、水は飛ばすは、小道具は飛んでくるは、役者が転げて落ちてくることもあるは、客もヤンヤと一緒《いっしょ》ンなって騒《さわ》ぐから、セリフが聞こえねぇほどサ」 「アハハハ!」 「役者と一緒に騒いでスカッとしてえ奴《やつ》ぁいいだろうが、女連れで見に行く芝居《しばい》じゃねぇ。なにせ芝居が男臭ぇし、女役者の役回りといやァ、遊女《ゆうじょ》か裸踊《はだかおど》りしかねぇってのが、女の客にすこぶる評判《ひょうばん》が悪イ」 「ホントに、王春《おうしゅん》と焔《ほむら》って正反対だな。で? 肝心《かんじん》の日吉《ひよし》は?」  演目《えんもく》の特色のはっきりした王春と焔に比《くら》べ、特色も曖昧《あいまい》で芝居|座《ざ》としての格《かく》も劣《おと》ると言われていたのが、日吉座だった。演目《えんもく》の傾向《けいこう》はやや荒事寄《あらごとよ》りだが、とても焔には敵《かな》わず、役者の質《しつ》がいいということで、なんとか三大座の面目を保《たも》っていた。  日吉の座長菊五郎《ざちょうきくごろう》は、どうにかして他《ほか》の二座と肩《かた》を並《なら》べる出し物を打てぬものかと思案していた。 「そんな時、菊五郎は蘭秋《らんしゅう》に出会ったのサ。蘭秋を見て、菊五郎はピーンと閃《ひらめ》いた」 「何を?」 「和事《わごと》と荒事の融合《ゆうごう》さ。王春のように軟派《なんぱ》一点じゃなく、焔のように硬派《こうは》一点でもない。二つのいいとこ取り。蘭秋を迎《むか》えることで、それができると踏《ふ》んだのサ」  菊五郎のその試みは、見事大当たりした。  荒事に花を添《そ》える和事の挿入《そうにゅう》。妖鬼《ようき》に立ち向うたくましい武将《ぶしょう》と、その美しき恋人《こいびと》との愛。英雄《えいゆう》を苦しめる邪教《じゃきょう》の女神の、息を呑《の》む色香《いろか》。夫とともに敵討《かたきう》ちに挑《いど》む強き妻《つま》、その夫婦《ふうふ》愛。  男役の派手《はで》な芝居《しばい》と立ち回りの迫力《はくりょく》に負けぬ、存在《そんざい》感のある女役は、それまでのどの芝居にもなかった。時には髪《かみ》や着物を振《ふ》り乱《みだ》して、男役とともに立ち回りをこなす蘭秋は、女役といえば花のような可憐《かれん》な女か、男を喜ばすだけの裸女《はだかおんな》しか見たことのなかった客の意識《いしき》を一変させた。 「日吉座は、蘭秋が来たことで、単なる荒事芝居に色事《いろごと》を絡《から》ませることができたのさ。質《しつ》のいい色事をね。英雄と敵役《かたきやく》の妖婦《ようふ》との悲恋《ひれん》とか、恋人《こいびと》の仇《あだ》を討《う》つ女|武者《むしゃ》。こういう出し物は王春《おうしゅん》も焔《ほむら》もできない。芝居《しばい》も立ち回りも、その両方ができる美女がいないからね」 「うん! ソレ! 確かに蘭秋《らんしゅう》ならできるよ! あの人なら絶対《ぜったい》男役に負けねぇな!」  雀《すずめ》は、蘭秋に会った時「すごく強そうだ」と感じたことが納得《なっとく》できた。 「蘭秋と藤十郎《とうじゅうろう》の『怨念《おんねん》もの』は、面白《おもしれ》ぇよな」 と、桜丸《さくらまる》が言った。 「怨念《おんねん》もの」とは「怪談《かいだん》」のことである。妖怪《ようかい》たちが怪談を面白がるとはこれ如何《いか》にと、雀は大笑いしたかったが、いかに妖怪といえど、やはり怨念は恐《おそ》ろしいらしい。 「殺された女が、墓場《はかば》から血みどろンなって男に復讐《ふくしゅう》しに来るのヨ。イヤこれが、えれぇ迫力《はくりょく》でな」 「あれは、美形の蘭秋ならではの怖《こわ》さだよねぇ。あの美しい顔を血まみれにして『お恨《うら》み申しますエ』なんて言われたら、ギャッと言っちゃうネ」 「アハハハ!」 「怨念もの」は、今や日吉座《ひよしざ》の人気|演目《えんもく》の一つである。  王春や焔の芝居には飽《あ》きたらぬ、また女連れで芝居を楽しみたいという客層《きゃくそう》が日吉《ひよし》に押《お》しかけた。蘭秋は、たちまち男にも女にも支持《しじ》される人気役者となり、日吉座は一躍《いちやく》、大江戸《おおえど》三大|座《ざ》の筆頭《ひっとう》に踊《おど》り出たのである。  日吉座の前は、客やら冷やかしやらでワイワイガヤガヤと祭りのように賑《にぎ》わっていた。今|掛《か》かっている演目《えんもく》「ヤマタノオロチ」の絵|看板《かんばん》や、男優女優《だんゆうじょゆう》の絵姿《えすがた》がズラリと飾《かざ》られ、演目を解説《かいせつ》する呼《よ》び込《こ》みの口上も威勢《いせい》よく、囃子《はやし》にのせて舞《ま》いも披露《ひろう》されていた。 「いいねえ。華《はな》やかだねえ」 「したが、日吉はこれでもまだ落ち着いてらア。これが王春なら、劇場《こや》前にヤサ男どもがガン首|揃《そろ》えて、集まった女どもに色目を使いやがって、まるで男茶屋だぜ」  劇場の中へ入ると、土間はもう大入り満員だった。  獣妖《けものよう》やら目玉|妖《よう》やら、大やら小やら、首の長いの手足の多いの、毛深いのツルッパゲの、どこでどう見るのかノッペラボーだの、ひしめきあう客たちはまるで妖怪《ようかい》の見本市のようだった。その間を、蜘蛛《くも》男が長い手足で這《は》いまわり、餅《もち》や茶を売り歩いている。雀《すずめ》は、その様子を見るだけでも楽しかった。  一方、桟敷席《さじきせき》に悠々《ゆうゆう》と陣取《じんど》っているのはパリッとした恰好《かっこう》の者たちで、裕福《ゆうふく》な商人やら、頭巾《ずきん》で顔を隠《かく》した武士《ぶし》もいた。たいてい綺麗《きれい》どころを横に侍《はべ》らしている。 (なんか俺《おれ》たち、桟敷席にはちょっと場違《ばちが》い? 綺麗《きれい》どころも……コレだし)  雀《すずめ》は桜丸《さくらまる》を見た。 「何笑ってンだえ?」 「いや別に」  そうこうしているうちに、舞台《ぶたい》の幕《まく》が上がった。まずは人気役者の舞いから。  日吉座《ひよしざ》の看板男優藤十郎《かんばんだんゆうとうじゅうろう》の男舞いは、古典的な振《ふ》り付《つ》けながらその美しさが評判《ひょうばん》である。手の一差《ひとさし》し足の一差しの指の先まで、まるで銀糸を張《は》り詰《つ》めたようだった。それは、舞いなどとはおよそ縁遠《えんどお》い雀にもわかるものだった。 「綺麗だ……!」  藤十郎は人型のように見えて、その切れ長の目は金、耳はピンと尖《とが》り、口元には細かい牙《きば》が見えた。そして、身体《からだ》の背中《せなか》半分が青っぽかった。 「あれは、水虎《すいこ》だよ」 「川の妖怪《ようかい》かぁ。あ、うさ屋の板サンと親戚《しんせき》みたいなもん!? ずいぶん違《ちが》うけど。ハハ」 「天下の藤十郎と比《くら》べないでおやりよ」 「まさに、水も滴《したた》るいい男ってやつだ」  次に登場したのは、こちらも人気のある役者、李角《りかく》の神舞い。もともと神社などで神に奉納《ほうのう》する神事として舞われた舞いである。  李角は、岩のような大きくゴツゴツした身体と顔で、鼻がひしゃげた蝙蝠《こうもり》のようだが、激《はげ》しい太鼓《たいこ》に合わせて長い棒《ぼう》を振《ふ》り回《まわ》して舞う姿《すがた》は神秘《しんぴ》的だった。  それを見ていた雀は、ポーと桜丸に訊《たず》ねた。 「あのサ……、藤十郎と李角を比べると、俺《おれ》としては藤十郎の方が男前だと感じるんだけど……みんなもそう感じるのかイ?」 「藤十郎《とうじゅうろう》と李角《りかく》じゃ、藤十郎の方が美形だとは思うけど……。人型だから美形だってことでもないネ」 と、ポーが言うと、桜丸《さくらまる》も頷《うなず》いた。 「波動の問題みてぇだな」 「波動??」 「そいつが、美しいという波動を発しているかどうかによるのヨ」 「ふぅ〜ん!?」  わかったようなわからないような。  蘭秋《らんしゅう》が舞台《ぶたい》に上がった。  燃《も》えるような紅《べに》色の着物が、目にも鮮《あざ》やかだ。たちまち客席から声が飛ぶ。 「待ってました!」 「芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋!!」  蘭秋は、大勢《おおぜい》の女たちを従《したが》えて舞《ま》い、その群舞《ぐんぶ》はまるで花吹雪《はなふぶき》のようで、それはそれは華《はな》やかで美しかった。客席はうっとりした。  舞《ま》いの後には、短い芝居《しばい》が二つ。人情《にんじょう》ものとお笑いものが演《えん》じられた。  お笑いものに登場した蘭秋は、わざわざ狐《きつね》の面をかぶっており、蘭秋が化《ば》け狐と知っている客たちは大|爆笑《ばくしょう》した。そして、遊女蘭秋に言《い》い寄《よ》って振《ふ》られるバカ旦那《だんな》を色男の藤十郎が演《えん》じ、蘭秋の白い尻尾《しっぽ》でビシバシひっぱたかれる藤十郎に客席は大受けで、雀《すずめ》も腹《はら》を抱《かか》えて笑ってしまった。 「面白《おもしろ》い、コレ!」 「どうだい、芝居も中々いいものだろう!?」  ポーは、パイプをうまそうに吹《ふ》かした。 「やっぱ芝居がうまいなぁ、日吉《ひよし》だなぁ。脚本《ほん》が違《ちが》わァ」 「脚本《きゃくほん》を書いているのは、菊五郎《きくごろう》の娘《むすめ》だってねぇ」  演目《えんもく》の前半が終わり、休憩《きゅうけい》に入った。弁当《べんとう》だの酒だのの売り子が、ワッと客席に散る。桟敷席《さじきせき》には、料亭《りょうてい》や茶屋からの出前がやってくる。雀《すずめ》たちの元にも、頼《たの》んでおいた弁当《べんとう》が届《とど》けられた。 「まいどあり〜。うさ屋でござ〜い」 「うさ屋」のお節《せつ》が出前にやって来《き》た。 「ありがとヨ、お節っちゃん。ごくろうサマ」 「桟敷席でお弁当《べんとう》なんて、今日《きょう》はずいぶん豪勢《ごうせい》だこと」 「取材だヨ、取材。俺《おれ》もう腹《はら》ペコだ〜。芝居《しばい》見物って腹《はら》が減《へ》る〜」  三|段《だん》重ねのお重には、うさ屋|自慢《じまん》のごちそうがギッシリつまっていた。 「おお〜、うまそ———!」  鰻《うなぎ》の味噌漬《みそづ》けに、ほっけのゴマ塩干《しおぼ》し、茄子《なす》の土鍋煮込《どなべにこ》み。  白身魚と小芋《こいも》のはさみ揚《あ》げは、つぶした小芋《こいも》に混《ま》ぜられた枝豆《えだまめ》の彩《いろど》りが鮮《あざ》やかで、外はカリカリ中はほっこりと仕上がっている。さっぱりイワシの梅煮《うめに》は、滅法界《めっぽうけぇ》酒に合うと、桜丸《さくらまる》はグイグイ杯《さかずき》をあおった。 「いやもゥ、桟敷で芝居見物の合間にうまい肴《さかな》で酒を呑《の》むときちゃア、蒲焼《かばやき》の後でスッポンたぁ、このことだなあ!」 「こっちにも酒をおくれよ、桜丸」 「しんこ巻《まき》とキュウリ巻がうめえ〜! 寿司《すし》って揚《あ》げ物《もの》に合う〜〜〜!」  うまい飯をたらふく食った頃《ころ》、舞台《ぶたい》ではいよいよ「ヤマタノオロチ」が始まった。  荒事《あらごと》の演目《えんもく》である「ヤマタノオロチ」は、藤十郎扮《とうじゅうろうふん》する英雄瑠璃丸《えいゆうるりまる》が、李角扮《りかくふん》する豪傑羽黒《ごうけつはぐろ》たちを従《したが》え、邪神《じゃしん》ヤマタノオロチを退治《たいじ》する物語である。  ヤマタノオロチはハリボテだが、巨大《きょだい》なうえに八本の首が実に見事にくねくねと動き、毒に見立てた紙吹雪《かみふぶき》を吹《ふ》いた。オロチの手下の妖鬼《ようき》たちとの大立ち回りもあり、迫力《はくりょく》ある舞台となっている。  そこに花を添《そ》えるのが、蘭秋扮《らんしゅうふん》する瑠璃丸《るりまる》の恋人《こいびと》、早乙女《さおとめ》である。  最初は、楚々《そそ》とした姫君《ひめぎみ》として登場する早乙女だが、物語の中盤《ちゅうばん》で羽黒《はぐろ》の裏切《うらぎ》りによって息|絶《た》える瑠璃丸に代わり、オロチに立ち向かう勇ましくも美々しい女|武者《むしゃ》へと変化する。  客たちは、死に別れる美男美女の悲恋《ひれん》に涙《なみだ》し、恋人の遺志《いし》を継《つ》いだ女武者の戦いぶりに拍手喝采《はくしゅかっさい》を送った。  瑠璃丸の遺体《いたい》にとりすがって号泣した早乙女が、 「おのれ羽黒、許《ゆる》すまじ! この仇《かたき》、この早乙女が必ず討《う》つ! 見ておれ〜〜〜!!」 と、決めゼリフを叫《さけ》ぶと、土間の客たちは総立《そうだ》ちになって熱狂《ねっきょう》した。雀《すずめ》も思わず釣《つ》られて立ち上がった。  それから物語の最後まで、客たちは立ちっぱなしで早乙女の活躍《かつやく》にヤンヤの喝采を送り、物語が終わり役者たちの挨拶《あいさつ》がすむまで、座《すわ》る客は一人もいなかった。雀《すずめ》も、手が痺《しび》れるほど拍手《はくしゅ》した。  劇場《げきじょう》から出ると、あたりはすっかり暮《く》れていた。 「スッゲーよ! 面白《おもしれ》ぇー、この芝居《しばい》!!」  興奮《こうふん》冷めやらぬ雀を見て、ポーは満足そうに頷《うなず》き、桜丸《さくらまる》は笑った。 「よくできてらァ。脚本《ほん》もいいが、こりゃあ、やっぱ蘭秋《らんしゅう》がいてこそ成り立つ芝居だなあ。面《つら》がまぶしいだけじゃ、アレは演《や》れねぇよ」 「俺《おれ》、蘭秋の芝居に鳥肌《とりはだ》立っちまったゼ。あの迫力《はくりょく》はスゲー!」  雀は、蘭秋がすっかり気に入ってしまった。それから、芝居の中では振《ふ》り向《む》かぬ者などいない蘭秋が(そしてそれは、現実《げんじつ》でも同じだろう)、実は百雷《ひゃくらい》に片恋である不思議を思った。 「芝居のようにゃいかねぇだろうけど、なんとか蘭秋の思いが百雷の旦那《だんな》に通じればいいなァ」  雀は、布団《ふとん》にくるまってからも、ずっとそんなことばかり考えていた。 [#改ページ] [#挿絵(img/02_134.png)入る]   でんつくに付ける薬なし  さて、それからほンの数日後のこと。  日吉座《ひよしざ》で大変なことが起こった。  その日|雀《すずめ》は、 「蘭秋《らんしゅう》のインタビュー[#「インタビュー」に傍点]記事を書こう」 ということで、ポーとともに日吉座《ひよしざ》に取材を申《もう》し込《こ》みに出かけた。すると、劇場《げきじょう》の手前で桜丸《さくらまる》が飛んで来た。 「お、雀、ポー! 今、大首《おおくび》ンとこへ行こうとしてたとこだ!」 「どうしたの、桜丸?」 「日吉座《ひよしざ》でコロシだ!」 「ええ———っ!?」  雀《すずめ》もポーも飛び上がった。  死んだのは、李角《りかく》であった。  死体があったのは、蘭秋の控《ひか》え室《しつ》も兼《か》ねた稽古《けいこ》場。李角はその稽古場の床板《ゆかいた》部分の、ほぼ中央に仰向《あおむ》けに倒《たお》れ、事切れていた。  死体を発見したのは、蘭秋。 「朝、稽古場へ入ったら李角サンが倒《たお》れていて……。もゥ、驚《おどろ》いたなんてもんじゃござんせん」 「また何か盗《ぬす》まれたってかイ?」  百雷《ひゃくらい》は、金色の目を光らせた。蘭秋《らんしゅう》は、青い顔で頷《うなず》いた。 「昨日《きのう》……大河《おおかわ》屋サンからいただいたばかりの、玉虫の宝玉《ほうぎょく》がござんせん」 「玉虫の宝玉!?」 「なンでも、すごく珍《めずら》しいものだからと……。ほンの小さな石でござんしたが、とっても綺麗《きれい》で」  部屋《へや》の隅《すみ》の机《つくえ》の上は、小物が倒《たお》れたり荒《あ》らされた様子が窺《うかが》えた。宝玉が入っていた桐《きり》の箱は机《つくえ》の下に落ち、蓋《ふた》が開いていた。  百雷は、ムゥと唸《うな》った。 「まさか、前々から続いていたイヤガラセの犯人《はんにん》の仕業《しわざ》とは思えねぇが……。櫛《くし》や簪《かんざし》を盗《と》ったあと、いきなりコロシたぁ、解《げ》せねぇな。宝玉を盗るところを李角に見られてやむなく……か?」  その様子を、劇場《げきじょう》へ入り込《こ》んだ雀《すずめ》、ポー、桜丸《さくらまる》が部屋《へや》の入り口から覗《のぞ》いていた。  ポーは、鼻をクンクンさせて首を捻《ひね》った。 「ずいぶん香《こう》が濃《こ》く焚《た》かれているねぇ」  その横で、雀《すずめ》も首を捻《ひね》った。  藤十郎《とうじゅうろう》に支《ささ》えられるように立っている蘭秋《らんしゅう》の印象があまりに弱々しいというか、あの凜《りん》とした伏見《ふしみ》の白狐《びゃっこ》と同じ者とは思えなかった。 「前からイヤガラセが続いてて、それがとうとうコロシにまでなっちまって……。よっぽどびっくりしてンだろうか!?」  その横で、桜丸も何やら考え込んでいた。 「玉虫の宝玉……」 「コ〜ラ、お前ら!」  三人を、仁王立《におうだ》ちの百雷《ひゃくらい》が見下ろしていた。 「よっ、百雷」 「御勤《おつと》め、ゴクローサンです!」 「コロシだって、旦那《だんな》!?」 「まだコロシと決まったわけじゃねえ。無関係な奴《やつ》ぁ、現場《げんば》に入るンじゃねえよ」  百雷《ひゃくらい》は、「しっ」と三人を追《お》っ払《ぱら》いにかかった。 「無関係じゃねえ! 取材だよ!」  雀《すずめ》が抵抗《ていこう》した。 「大江戸《おおえど》の市民には、『知る権利《けんり》』があるんだゾ!」 「し、知る権利? 何だエ、ソリャ??」  雀は、百雷の脇《わき》をヒョイとすり抜《ぬ》けて部屋《へや》の中へと入った。 「悪いこたぁ書かねぇから、安心してくんな、太夫《たゆう》!」 と言いつつ、倒《たお》れた李角《りかく》の死体を観察する。 「あっ、コラ、雀!」  李角の身体《からだ》に、特に変わったところは見られなかった。 「争った後とか……全然ないな」  それから雀《すずめ》は、自分の姿《すがた》が映《うつ》るほど鏡のように磨《みが》き上げられた床《ゆか》に驚《おどろ》いた。 「すげえ! ピカピカだあ」 「仕事の邪魔《じゃま》すンじゃねえ、雀。こっちイ、来な!」 と、百雷《ひゃくらい》が雀の腕《うで》を引いた時だった。百雷はそのピカピカの床に足を滑《すべ》らせ、雀もろともズデンと派手《はで》にひっくり返った。 「うおっ!!」 「ぎゃっっ!!」  雀は、百雷のでかくて重い図体《ずうたい》の下敷《したじ》きになった。蘭秋《らんしゅう》やポーが駆《か》け寄《よ》った。 「百雷さま!」 「雀!」 「潰《つぶ》れたんじゃあるめぇな!?」  桜丸《さくらまる》は笑いをおしころした。 「お怪我《けが》ござんせんか、百雷さま!?」 「こんなツルツルの床《ゆか》で、よく転ばず稽古《けいこ》できるもンだな、太夫《たゆう》?」  百雷《ひゃくらい》は、腰《こし》をさすりさすり言った。 「しっかり腰を落としていれば、転ぶことなぞござんせん。この床での稽古の成果が、舞台《ぶたい》で出るンでござんすよ」 「さすがだなァ」 「早くどいとくれよ、旦那《だんな》!」  百雷の尻《しり》の下で、雀《すずめ》がわめいた。 「オッ、コリャすまんすまん。お前《め》ぇの骨《ほね》が腰《こし》に刺《さ》さったゼ、雀。もうちっと太《ふと》りねえ」  笑いながら立ち上がる百雷の足元を見て、雀は思った。 (そうか。旦那《だんな》は足袋《たび》を履《は》いてるから滑《すべ》ったんだ。李角《りかく》も滑って頭を打ったんじゃ……!?)  それから、ひっくり返った自分のすぐ鼻先にある李角の足を見た。裸足《はだし》だった。 (李角は町人だから、基本的《きほんてき》に裸足……。稽古の時以外は……。李角が百雷の旦那みたいに一人で転ぶことはない。やっぱりコロシかなあ……。酒くせぇな、この死体……。んん??)  雀は、妙《みょう》なことに気づいた。 「そういやぁ、李角はなんで朝早い時間に、お前ぇの稽古場にいたんだエ?」  百雷《ひゃくらい》にそう問われると、蘭秋《らんしゅう》の顔色はますます蒼白《そうはく》になった。 「それは……わかりんせん」  頭を振《ふ》る蘭秋の代わりに、藤十郎《とうじゅうろう》が口を開いた。 「李角は蘭秋に岡惚《おかぼ》れでネ」 「藤十郎《とうじゅうろう》サンッ!」 「いいじゃないか、蘭秋。言っておやりよ。いつもいつも酒を呑《の》ンじゃ絡《から》んできて、あやまり三宝《さんぼう》だったってね!」  蘭秋は、困《こま》り果《は》てた様子だった。 「今日《きょう》だって、どうせ朝まで呑んだくれて、フラフラこの部屋《へや》へ入ってきたのだろうサ」 「なるほど。そこで下手人と鉢合《はちあ》わせってわけか……?」 「雀《すずめ》、何してるンだい?」  起き上がろうとしない雀に、ポーが声をかけた。雀は、李角《りかく》の足の裏《うら》をしきりに嗅《か》いでいた。 「甘《あま》い匂《にお》いがする」 「甘い匂い? ボクにはこの香《こう》のせいで、匂いなんか全然わかンないよ。ああ、そうか。雀は人間だから、この香は効《き》かないんだな」  雀は、李角の足の指の間にわずかに付いていた黒いものを筆の尻《しり》で突《つつ》いてみた。白い紙の上にポロリと落ちた小さな小さな黒い欠片《かけら》に、目を皿にする。 「……餡《あん》コだ」 「菊五郎《きくごろう》、一つ聞きてぇことがある」  桜丸《さくらまる》が、こちらも困《こま》り果《は》てている座長《ざちょう》に尋《たず》ねた。 「ヘェ、何でござんショ?」 「日吉《ひよし》にゃあ、猫《ねこ》族はいなかったよな!?」 「ヘェ、おりやせんが」 「どうしたイ、桜丸《さくらまる》?」 「イヤ……」 「猫《ねこ》はおりやすがネ」  菊五郎《きくごろう》は力なく笑った。 「なにっ?」  驚《おどろ》く桜丸の足元を、ふわっと温かいものが横切った。一|匹《ぴき》の黒猫が、蘭秋《らんしゅう》にゴロゴロと擦《す》り寄《よ》った。 「タマル」  蘭秋が抱《だ》き上《あ》げる。 「蘭秋の飼《か》い猫のタマルでサ」 「……ハッ!」  桜丸は、合点がいったように笑った。 「だからなンなンだよ、桜丸《さくらまる》!?」 「百雷《ひゃくらい》、お前《め》ぇ知らねぇのかヨ。玉虫の宝玉《ほうぎょく》の渾名《あだな》は�猫《ねこ》の目�だぜ」 「猫の目!?」 「あの七色の石は、猫の目にゃあチラチラ光って見えるのヨ」 「光って見える……」 「じゃれつかずにゃあ、いられねぇほどな」  桜丸は、ニヤリとした。 「え……ってこたぁ、ひょっとして……!?」  その場の全員が、蘭秋《らんしゅう》の腕《うで》の中のタマルを見た。  百雷《ひゃくらい》は、自分の顎《あご》から黒い毛を一摘《ひとつま》み抜《ぬ》くと、フウッと飛ばした。 「索《さく》」  その黒い毛は空中で針《はり》となり、ヒュンヒュンと四方に飛び散った。 「オオッ!」  雀《すずめ》は目を見張《みは》った。  百雷の髭《ひげ》がピクピクと上下する。バッと羽織《はおり》の袖《そで》を翻《ひるがえ》し、百雷が叫《さけ》んだ。 「そこ! その衣装箱《いしょうばこ》の辺だ。探《さが》せ!!」 「ヘイッ!!」  犬|面《づら》の岡引《おかっぴき》が、積まれた衣装箱《いしょうばこ》の間に顔を突《つ》っ込《こ》んだ。尻尾《しっぽ》がバタバタしている。それを見る蘭秋が、なぜかとても狼狽《ろうばい》しているようで、雀は奇妙《きみょう》に思った。 (お宝《たから》は盗《ぬす》まれたンじゃなく、猫《ねこ》が転がした!? じゃあ、李角《りかく》を殺した下手人は誰《だれ》だ?)  そして、手の中の紙を見る。 「餡《あん》コ……」 「あった! ありやした!!」  岡引が、小さな小さな光る石を掲《かか》げた。 「おお!」  皆《みな》がどよめいた。 「お宝《たから》は盗《ぬす》まれていなかったンだね。良かったじゃないか、蘭秋《らんしゅう》!」  藤十郎《とうじゅうろう》にそう言われても、蘭秋は固まったままだった。 「え、ええ……」 「猫《ねこ》の目」を見て、ポーは猫の目をクルクルさせた。 「うわぁ、ホントだ。チラチラして見える。酔《よ》いそうだよ」 「さて、困《こま》ったの」  百雷《ひゃくらい》は、ウ〜ンと唸《うな》って腕《うで》を組んだ。 「お宝《たから》が消えたことと李角《りかく》が死んだこととは、関係なかったわけだ」  蘭秋が泣きそうになっている。 「あ〜、なんかコゥ……菊屋《きくや》の饅頭《まんじゅう》が食いてぇ気分だゼ」 と、百雷が言った時だった。 「ソレだ———っっ!!」  雀《すずめ》が大声を張《は》り上《あ》げた。全員、キャッと飛び上がった。 「なっ、なんだエ、雀!? 大声出しゃあがって……」 「八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》! 李角が死んだのはな! すっ転んだのさ、菊屋の饅頭|踏《ふ》ンずけて!!」 「ハアァ!?」 「李角は、よく酒を呑《の》んで太夫《たゆう》に絡《から》んでたって言ってたよな、藤十郎《とうじゅうろう》さん」 「ああ、そうだよ」  藤十郎とともに菊五郎《きくごろう》も頷《うなず》いた。 「役者としても舞手《まいて》としても中々いい筋《すじ》なんでござんすが、いかんせん酒グセが悪くてねぇ。よく手を焼きやした。身体《からだ》にも悪いからやめろと、厳《きび》しく申してたンでござんすが……」  雀は、ウンと頷《うなず》いた。 「俺《おれ》の推理《すいり》はこうサ。李角は、今日も朝まで呑《の》んで帰ってきて、太夫に会いにこの部屋《へや》へ入ってきた。でも、いつもみたく絡《から》もうと思ったんじゃなくて、土産《みやげ》を渡《わた》そうと思ってた。菊屋の饅頭さ。でも部屋に太夫はいないし、酔《よ》っ払《ぱら》ってる李角は、気まぐれで土産を買ってきたことに、急に腹《はら》が立ってきた」 「ホゥホゥ」  百雷《ひゃくらい》はじめ、皆《みな》が興味津々《きょうみしんしん》と雀《すずめ》の話に聞き入る。 「で、机《つくえ》の上のものをバーンと払《はら》って、土産《みやげ》の饅頭《まんじゅう》を床《ゆか》にベーンと叩《たた》きつけて、思いっきり踏《ふ》みつけたんだ。その拍子《ひょうし》に……」 「餡《あん》こに滑《すべ》って、ひっくり返ったんだね!」  ポーは、大きな目をさらに大きくさせた。 「そう! 酒で身体を痛《いた》めていた李角《りかく》は、床で頭を打ったことでポックリお陀仏《だぶつ》ほうちんたんってわけサ」  皆《みな》、呆気《あっけ》にとられた。ただ一人、青い顔をした蘭秋《らんしゅう》を除《のぞ》いては。  雀は、百雷に餡この欠片《かけら》を見せた。 「李角の足の指の間にはさまってたよ」 「しかし、雀。床に饅頭なんぞなかったゼ?」 「誰《だれ》かが片付《かたづ》けたんだ。他のやつに見つかる前に……」  雀《すずめ》は、蘭秋《らんしゅう》を見た。 「太夫《たゆう》!?」  今度は、藤十郎《とうじゅうろう》と菊五郎《きくごろう》が真《ま》っ青《さお》になった。 「太夫、まさか……。李角《りかく》は自分でひっくり返ったらしいが、まさか……太夫が突《つ》き飛《と》ばしたりしてないだろうね!?」 「そんなこと、ありんせん!!」  蘭秋はそう絶叫《ぜっきょう》すると、とうとうワッと泣《な》き伏《ふ》した。 「エート……?」  百雷《ひゃくらい》は、目を点にして耳を掻《か》いた。  雀《すずめ》は太夫《たゆう》の側《そば》に寄《よ》り、優《やさ》しく言った。 「百雷の旦那《だんな》に相談してたイヤガラセの話、あれはウソだったんだろ、太夫?」  蘭秋は、ハッと顔を上げた。 「太夫《たゆう》は……李角《りかく》が床《ゆか》に落として、その後|猫《ねこ》が転がしたお宝《たから》を、本当の悪党《あくとう》が来て盗んだと、勘違《かんちが》いしたんだよな。その悪党が、李角《りかく》を殺したとも思った。それで、コロシの現場《げんば》になぜかあった菊屋《きくや》の饅頭《まんじゅう》を、この一件に関係あるものかも知れないと、早トチリしちまった。だから、饅頭だけは片付《かたづ》けなきゃと思ったんだよな。太夫にとっちゃ菊屋の饅頭は、コロシなんかと関係してちゃいけないものなンだよネ。菊屋の饅頭がこんなとこ[#「こんなとこ」に傍点]にあるなんて、絶対イヤだったんだよネ」 「だから、この香《こう》か!」  ポーは、手を打った。 「饅頭は片付けやしたが、餡《あん》この甘《あま》い匂《にお》いが取れなくて……。鼻の利くお方を誤魔化《ごまか》すために……」  蘭秋《らんしゅう》は泣きながら言った。 「またなんで、そんなことを……。太夫?」  首を傾《かし》げる百雷に、ポーが呆《あき》れて言った。 「菊屋の饅頭は、旦那《だんな》の好物だからだよ」 「俺《おれ》? そりゃそうだが……」  雀は口をとがらせた。 「李角が腹《はら》を立てて饅頭を踏《ふ》んずけたのも、旦那の好物だからだよ」 「エート……」  百雷は、また耳を掻《か》いた。 「李角サンは、アタシが菊屋の菓子《かし》を好きな理由を知っておいででござんした」 「え? 好きな理由って、お前《め》ぇ……。うまいからじゃないのかエ?」  桜丸《さくらまる》が頭を振《ふ》った。 「ア〜ア、このアハハの三太郎《さんたろう》が!」  蘭秋は、涙《なみだ》に濡《ぬ》れた顔を百雷に向けた。 「劇場《こや》の外で暴《あば》れる半可通《はんかつう》を、アッという間に取り押《お》さえなさんした。あのお姿《すがた》を見て以来、日も夜もあなた様にお会いしたくて胸《むね》を焦《こ》がしやしたよ」  蘭秋《らんしゅう》は百雷《ひゃくらい》の前へ進み出た。まるで芝居《しばい》を見ているようだった。  泣き顔の蘭秋はその色気もいっそ凄《すさ》まじく、迫《せま》られた百雷は思わず腰《こし》が引けた。 「イヤガラセをされてるのなンのと、あなた様の気を引くために嘘《うそ》までついた阿呆《あほう》でござんす。甘《あま》いものが好きでもないくせに、あなた様の好物だからと菊屋《きくや》の饅頭《まんじゅう》を食べて、胸《むね》の焦《こ》がれを慰《なぐさ》めておりやした。それを愚《おろ》かだと、李角《りかく》サンに笑われやした」 「太夫《たゆう》……」 「お慕《した》い申しておりやす、百雷さま!」  蘭秋は、百雷の胸《むね》に飛《と》び込《こ》んだ。雀《すずめ》は、拍手喝采《はくしゅかっさい》したいところだった。 「ヤレヤレ……。ここまで言われなきゃわからないかねぇ」 「でんつくにも程《ほど》があらァ」  ポーと桜丸《さくらまる》は肩《かた》をすくめ合った。  李角が、前日の夕刻菊屋《ゆうこくきくや》で饅頭《まんじゅう》を買ったという「裏《うら》」も取れ、雀の推理《すいり》通り、李角は事故死《じこし》ということで片《かた》がついた。 「しかし、雀。蘭秋《らんしゅう》がイヤガラセを受けてるってのが芝居《しばい》だって、よくわかったねぇ」  ポーは感心した。 「太夫の態度《たいど》が、それまでと全然|違《ちが》ったじゃねぇか。それどころか、お宝《たから》がみつかってますます困《こま》ってた。『あれ? なんで?』って感じ? おかしいなあって思ってたんだ。で、ひょっとしてイヤガラセは嘘だったんじゃないかって仮定《かてい》したら、全部こうスーッと筋《すじ》が通ったっていうか? だって、太夫が百雷《ひゃくらい》の旦那《だんな》の気を引こう引こうとしてたのはわかってたからさぁ」  雀は、ちょイと鼻をつんとさせて言った。 「それまでは、何か盗《ぬす》まれたってのはウソだったんだから、それがホントになって一番びっくりしたのは太夫だったんだよな。おまけに李角は死んでるし、パニクっただろうなあ。でも、菊屋《きくや》の饅頭《まんじゅう》だけは片付《かたづ》けねぇとと思ったんだ。健気《けなげ》じゃねぇか」  雀《すずめ》が一丁前《いっちょまえ》のことを言ったので、ポーは笑えてきてしまった。  幸いなことに、その蘭秋《らんしゅう》にお咎《とが》めなどはなかった。  しかし……。 [#改ページ] [#挿絵(img/02_155.png)入る]   季節|移《うつ》りて木の芽|吹《ふ》く  大首《おおくび》のかわら版屋の奥座敷《おくざしき》に、雀《すずめ》の絶叫《ぜっきょう》が轟《とどろ》いた。 「ええ〜〜〜っ!? 百雷《ひゃくらい》の旦那《だんな》が蘭秋《らんしゅう》を振《ふ》ったって?? そんなあ!!」 「これであの一件《いっけん》をかわら版にできなくなっちゃったねぇ。旦那《だんな》と蘭秋《らんしゅう》がうまくいきゃあ、いい話にまとまったんだけどねぇ」  ポーは、大きくパイプの煙《けむり》を吐《は》いた。 「そんなの問題じゃねぇよ、ポー! 何? 旦那は蘭秋の何が気に入らないわけ? あンな美人でしっかりしてて、自分を好いてくれてるのに!!」 「まぁねぇ……、これ[#「これ」に傍点]ばっかりは好みの問題というか……」  ポーは苦笑いした。 「え? ひょっとして身分とか気にしてンの、旦那《だんな》は? 蘭秋《らんしゅう》が役者だから? そんな理由なら、俺《おれ》旦那のこと見損《みそこ》なっちまうぜ? 魔人《まじん》でお上の御用人《ごようにん》かなんか知らねーけどさァ!」 「八丁堀《はっちょうぼり》の旦那は、そういうことは気にしないお方だヨ。身分|云々《うんぬん》というほどの身分じゃないしね。蘭秋に好かれるのは光栄だけども、自分を好いてくれてるからこそ、遊びじゃ付き合えないっていうのが旦那の言い分サ」  雀《すずめ》は、ますますムッとした。 「遊びじゃなくて結婚《けっこん》すりゃい———じゃん! 結婚《けっこん》を前提《ぜんてい》にお付き合いってやつを、とりあえずすりゃい——じゃん! 馬は走ってみよ、人も走ってみよとか言うじゃん!」 「�馬には乗ってみよ、人には添《そ》うてみよ�だよ」 「あの二人ならうまくいくって!」  ぶぅぶぅ言う雀を、ポーは大きな目で見た。 「………………なんか、話がイマイチ噛《か》み合《あ》ってないね!?」 「何が?」 「八丁堀の旦那は、家のこともあって子どもを作らなきゃならないんだ。遊びじゃともかく、真剣《しんけん》に付き合うとなったら、その先には子作りがあるのサ」 「蘭秋とすりゃいーじゃねぇか! 子作りを!!」  ポーは、しばらく雀を見つめた後、「ブッ!」と吹《ふ》き出《だ》した。 「蘭秋は男だよ、雀!?」 「………………」  うっかりひょん。 「ひゃはははは!! こいつぁ、面白狸《おもしろだぬき》のきんつばやきだ! 腹《はら》がよじれらあ!!」 「うさ屋」の二階の畳《たたみ》の上に仰《の》け反《ぞ》って、桜丸《さくらまる》は大笑いした。雀《すずめ》は、いまだ納得《なっとく》いかぬという顔だった。 「どっからどう見たって女じゃん……」 「てっきりお前《め》ぇも、蘭秋《らんしゅう》は男だってわかってると思ってたぜ、雀」 「だって、ずっと女の恰好《かっこう》だったし……」 「確《たし》かに、焔《ほむら》も王春《おうしゅん》も女役者はみんな女だがな」 「だろ、だろっ!? それに�太夫《たゆう》�って呼《よ》ばれてたし。菊月《きくづき》太夫だって女じゃん!」  ポーがパイプに火を入れた。 「陰《いん》の職《しょく》っていってねぇ。芸の世界でいうと、女役者、三味線《しゃみせん》、笛、歌の演者《えんじゃ》なんかの最高位を、皆《みな》�太夫�と呼《よ》ぶんだよ。男でもね」 「陰の職《しょく》……?」 「遊女は当然で……。占道《せんどう》の家元……華道《かどう》もそうか。手妻《てづま》とか、カラクリ師《し》も�太夫�だなぁ。あ、男茶屋の売れっ子も�太夫�だぜ」 と、雀《すずめ》に向って桜丸《さくらまる》は面白《おもしろ》そうに言った。 「陰の職に対して陽の職……男役者、舞《ま》い、太鼓《たいこ》の演者の最高位を�宗匠《そうしょう》�と呼ぶんだよ。絵師《えし》、武道《ぶどう》、料理人とかもそう。もっとも、宗匠ってよりも、師匠《ししょう》とかおっしょさんと呼ばれるけど。これも男女に関係なくね」 「女で男役者ってなぁ、まだお目にかかってねえなぁ」  桜丸《さくらまる》が笑った。ポーが大きな目玉をクリッと動かした。 「オヤ、知らないのかい、桜丸? 王春《おうしゅん》には何人かいるよ。毎回男役じゃないけども」 「へ〜っ……と感心するが、王春の芝居《しばい》じゃあ、見る気はしねぇなあ」  雀《すずめ》は、腕《うで》を組んで考えこんでいた。 「あのサ、問題はサ、蘭秋《らんしゅう》も男で百雷《ひゃくらい》の旦那《だんな》も男ってことなんだけどサ」 「ああ、そうだったネ」  ポーは、パイプの煙《けむり》をくゆらせながら苦笑いした。 「まぁねェ……性《せい》のタブーってのも、ないっちゃないんだけど!? オスとメスに分かれている者もいれば、両方持ってる者もいれば、両方ない者もいるからねェ。前にも言ったと思うけど、魔力《まりょく》の強い者になれば男を孕《はら》ませることだってできるンだから。ただ、八丁堀《はっちょうぼり》の旦那がそれをできるかどうかは知らないけど」 「だから囲《かこ》やァいいと言ったんだが、そりゃできねぇと、あのでんつくは。囲ってやりゃあ、蘭秋だって喜ぶものをヨ」 「変なとこでマジメなんだねぇ」 「だから出世できねぇのヨ」  笑い合うポーと桜丸を、雀は呆然《ぼうぜん》と見ていた。 「男同士ってことは……全く気にならねぇんだな?」 「言っただろ、雀。これ[#「これ」に傍点]は好みの問題だって」  ポーは目を細めた。 「桜丸も……男に……その、惚《ほ》れたり惚れられたりしても……いいとか?」  恐《おそ》る恐る問う雀に、桜丸はあっけらかんと答えた。 「いい男ならな」 「いいんだ!? …………ちょっとショック」 「大江戸《おおえど》の水に慣《な》れることだヨ、雀」  ポーも桜丸も、意地悪そうに面白そうに笑った。  自分はまだまだだな……と、雀《すずめ》は思った。  李角《りかく》の死で、日吉座《ひよしざ》の評判《ひょうばん》が落ちることもなく、相変わらず出し物を打てば連日大入り満員の人気ぶりだった。  事件《じけん》のことはかわら版にはできなかったが、雀は蘭秋《らんしゅう》にインタビュー[#「インタビュー」に傍点]させてもらった。  蘭秋は相変わらず美しくて凜《りん》としていて、恋《こい》に破《やぶ》れたことなど微塵《みじん》も感じさせなかった。  芝居《しばい》のことなどいろいろ聞いて取材を終えたあと、蘭秋は雀に言った。 「百雷《ひゃくらい》さまは、何も変わらず優《やさ》しく接《せっ》して下《くだ》さんす。エエも、憎《にく》いったらありゃしない。もちろん、アタシはあきらめたわけじゃござんせんよ? この蘭秋をソデにしたこと、そのうちきっと後悔《こうかい》させて差し上げますともサ」  そういう蘭秋の笑顔《えがお》の匂《にお》い立つような色気に、ついウッカリとクラリときそうになる雀だった。 「蘭秋を見てると、身体《からだ》の奥《おく》がザワザワする感じがするんだ。……俺《おれ》って……ひょっとして、男が好きなのかな??」 「うさ屋」の二階にいた鬼火《おにび》の旦那《だんな》に、雀は詰《つ》め寄《よ》った。 「イヤッ、いいんだよ。いいんだよな。大江戸《おおえど》には男も女もそれ以外もいっぱいいるから、男だ女だってぇ言うのは、器《うつわ》が小《ち》っせぇってなもンなんだよな!? だから、俺が男を好きになっても、ちっともヘンじゃねェんだよな!?」  初々《ういうい》しく戸惑《とまど》う雀を見て、鬼火の旦那は吹《ふ》き出《だ》すように笑った。 「色気がわかるようになったってェなら、そりゃお前ぇ……木《こ》の芽《め》時なンじゃねぇか?」  旦那《だんな》は、どこか嬉《うれ》しげな顔をして、うまそうに煙管《きせる》の煙《けむり》を吐《は》いた。 「木《こ》の芽《め》時……?」 「だがまァ、男に惚《ほ》れられたり惚れたりした時のために、今から覚悟《かくご》しとくに越《こ》したこたねぇやナ。お前《め》ぇの世界の江戸《えど》だって、男色は高尚《こうしょう》な趣味《しゅみ》としてお盛《さか》んだったンだ」 「えっ、そうなのかっ!?」 「いっぺん、男茶屋へ行ってみるかイ?」  旦那は、黒|眼鏡《めがね》の向こうで面白《おもしろ》そうに笑った。 「………………」  雀《すずめ》は汗《あせ》をかきながらたっぷりと悩《なや》んだあと、 「まだいいデス」 と言った。  妖怪《ようかい》たちの大江戸に、秋が深まってゆく。  風天宮《ふうてんぐう》で、秋の大祭が始まった。  輝《かがや》くような白馬に跨《また》がった白衣の武者《むしゃ》行列。巨大《きょだい》な山車《だし》には巨大な白虎《びゃっこ》が乗っており、その美しさは神々《こうごう》しいばかりで、雀は思わず「ありがたい、ありがたい」と拝《おが》んでいた。  白装束《しろしょうぞく》に揃《そろ》いの白|面《めん》をつけた曳《ひ》き手が「エイサー、エイサー」と山車を曳く。何百本と立てられた七色の吹流《ふきなが》しが、境内《けいだい》を渦巻《うずま》く神風に華《はな》やかにたなびいていた。その風の中を、黄金に煌《きら》めく何かが飛び交《か》っている。まるで透明《とうめい》な鳥のようなそれは、風天宮の中をひゅんひゅんと飛びまわりながら煌めき、祭りに花を添《そ》えていた。  風天宮祭は、火天宮《かてんぐう》祭のような熱気はないものの、豊穣《ほうじょう》への祈りの込《こ》められた、どこか厳粛《げんしゅく》な雰囲気に満ちていた。より「神事《しんじ》」に近い感じがした。 「秋祭りって、趣《おもむき》があるよねぇ」  ポーがしみじみと言った。雀《すずめ》も頷《うなず》いた。  移りゆく季節を感じる。  大江戸《おおえど》は、夏から秋へ。そして、冬へ———。  季節ごとに、美味《うま》いものと、風の匂《にお》い、水の煌《きら》めきを変え、さまざまに行事を重ねて。  山車《だし》の上の大白虎《おおびゃっこ》が、むっくりと起き上がると、 「ゴアア———ッ!!」 と、吠《ほ》えた。その口から、金の札が無数に飛び出て神風にくるくると舞《ま》った。見物人が、わぁわぁ言いながら金札を取り合う。 「だ———っ!!」  雀《すずめ》は渾身《こんしん》の力をこめて飛び上がり、空中に舞う金札《きんふだ》の一枚をはっしと掴《つか》んだ。 「やったね、雀!」 「しゃあ———! 嬉《うれ》しい!!」  去年はじめてこの「札舞《ふだま》い」を見た時から、雀は札が欲しくて欲しくて狙《ねら》っていたのだ。しかもその金札には「大吉《だいきち》」の赤い文字が刻《きざ》まれていた。 「大吉だ———っ!!」 「こいつぁ、縁起《えんぎ》がいい。風天宮の金札で大吉なんて、なかなかないヨ」  ポーは拍手《はくしゅ》を送った。  雀は嬉しくて嬉しくて、真っ赤になって金札を握《にぎ》りしめた。  そこへ、桜丸《さくらまる》が飛び込んできた。 「ポー! 雀! 参道《さんどう》で関取が地回《じまわ》り相手に大立ち回りをやってるぜ!」  ポーの耳がピンと立った。 「仕事だよ、雀!」  雀《すずめ》の顔も変わった。 「待ってました! 火事と喧嘩《けんか》は大江戸《おおえど》の華《はな》!」  見物人を掻《か》き分け掻き分け、雀、ポー、桜丸《さくらまる》の三人は境内《けいだい》を飛び出して行った。  さぁさぁさあ、大変だ大変だ。上下|揃《そろ》って事明細《ことめいさい》ィ!! [#改ページ] 香月日輪(こうづき・ひのわ) 和歌山県に生まれる。「地獄堂霊界通信」シリーズ『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞を受賞、『妖怪アパートの幽雅な日常㈰』(講談社)で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。その他の著作に「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)、「ファンム・アレース」シリーズ(講談社)などがある。怪談本好きの大阪市在住。 [#改ページ] 底本 理論社 単行本  大江戸妖怪かわら版㈪  異界から落ち来る者あり 下  著 者——香月日輪  2006年6月  第1刷発行  発行者——下向 実  発行所——株式会社 理論社 [#地付き]2008年10月1日作成 hj [#改ページ] 修正  『ワルガキ、幽霊にひびる!』→ 『ワルガキ、幽霊にびびる!』 置き換え文字 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90